日々生きていく意味

日常は、何かと事件事故が起きている。これだけ人が居れば何かが起こるのは間違いない。

 しかし、その騒がしい世間にあって、その流れに流されることなく生きている人がどれ程居るのだろうか。

 土曜日は、仕事関係の用事のため札幌駅で下車し目的地に向かったのだが、その地下街ですれ違う多くの人が自分或いは他人の事を考えながら歩いているのだろうと思った。

 駐車場の入り口で車の出入りを監視する監視員、通行人にティシュを配るアルバイト、その間を通り抜ける何千人、何万人の人、それぞれが何かを考えその一瞬を生きているのである。

 その中には、幸せな気持ちで居る人や不幸せな境遇に居る人も居るだろう。その有る意味不ぞろいに近い思考の渦がもし色づいて居たらと想像してみた。
 例えば幸せな人はピンクだろうか、不幸せな人は黒だろうか、その湯気が体から立ち上りその煙が人が行きかう上空2m程を漂う光景である。

 きっとその場で見る事が出来れば、凄い見ものになるのだろうと思う。

 しかし、決してその姿を見る事は出来ないが、その境遇は色々であり、もしかしたらこの後直ぐに死んでしまう人が歩いていたかもしれない。でもその人もこの後直ぐこの世からは姿を消すとは考えていないだろう。誰もが、明日が来る事を信じて生きている。或いは明日が来るのが当たり前だと思いながら暮らしている。

 自分自身も、明日このblogを更新できないとは考えていない。きっとまた新しい日常が当たり前のように存在すると考えながら生きているのだろう。

 しかし、もし明日がこの世の終わりであったとしたら、この一瞬、この一日をどのように過ごすだろう。この時間の流れが一秒と一秒の間の一瞬で途切れるとしたら。

 その時何を考えるだろう。何故自分がこの世に生まれ、そして生きてきた意味を。自分は本当にこの世に必要だったのだろうか、或いは何をしてきたのか、或いは何をするのか、この世界を生きてきたのか、今生まれたばかりの赤ん坊も。

 忙しさに理由をつけ自分が生きてきた意味を見つめ直すことをやめていたかもしれない。
 自分は何故この世に生まれてきたのだろうか?