商魂たくましきなり

今日も曇り。空全体を雲が覆いつくす。風はまだ冷たい。日中は気温も高くなるのだろう。

 
 朝のTVで良くやることに、CMの話がある。どこかのCMに若手俳優、歌手が出ましたというあれである。取り立ててニュースという話題ではないはずで、これもTVのCM離れを減らそうという作戦なのはよく判る。
 しかし、ニュースの時間にCMを流しては実質CM枠である。芸能ニュースの中で流れるわけであるからここだけCMカットというわけにはいかない。とはいっても芸能ニュースの枠自体が、芸能人の宣伝枠だからCMと同じといえば同じということである。

 そしてまたいやらしいのが、XJAPAN、ZARDなどの故人の追悼コンサートをするという話題。ひっそりと行うのはまだしも何やら追悼は脇に追いやり、初戦かな儲けの道具でしょというところが目に付きすぎである。

 それを理解してあげるのも大人の考えといえばそうなのだが、そのあざとさが目に付くようでは商売上手とは言えない。

 世の中、商売という目で物事を見てしまえば全て何やら胡散臭くなる。つい物事を儲かる儲からないという判断で見てしまうようになってしまう。純粋に(この言葉自体何やらうそ臭いが)信じてあげればよいのだが、うそつきが多すぎてどこに物事の本質があるのかわからない。

 資本主義社会は、者の売り買いをすることから始まった。そのため社会主義国家と違い、ものを沢山持っているものが必然と勝者になる。それは独占すればするほど優位な立場に立てるのだ。
 しかし、多くの競争相手がいてしのぎを削らなければならない場合、他者との差別感を出すため宣伝が始まる。解散したグループともなれば、昔のファンが戻ってくるか本当に不安である。そこで宣伝材料となるアドバルーンを揚げざる終えないのは良くわかる。でも、亡くなった人は違うだろう。故人が本当にビデオの姿でコンサートをするのを望んでいたのかいという疑問符が付きまとうからである。ただ、お祭り騒ぎをしたいがための道具としてしか考えていないのだろうと。

 まあ、需要があるところに物事は発生する。需要がなければその物事自体発生しないのは自明の理である。あざとさに目を瞑り成り行きを見守るしかない。その結果、それに気づいた人々はその喧騒から離れるようになり、遠くから騒ぎを聞くか無視することになるのだ。