ネット社会

 今日も冷え込んでいる。気温はマイナス10度行くか行かないかくらいだろう。晴れてはいるが、まだ完全に空は開けておらず、真上の空には半月が白く光っている。


 今年も残すところ後わずかとなり、人の出入りが多くなっている。今年一年を締めくくり新しい一年を始める前の儀式ではある。それが新しい空気を生み流れとなれば日本も変わるだろう。

 今年一年は、色々な混乱を生んだ年であった。民主党政権になり新しい日本がやってくると感じたが、それも最初だけで、既得権益を持ったグループ(それは自民党ではない)、抵抗勢力と呼ぶ業界、官僚からの巻き返しがものすごかった。

 

 この既得権益グループは、自民党の長期政権時代に築き上げた権力と金の流れを守ろうと必死であり、何とか民主党政権の動きを止めようとして動いた節がある。その動きをある部分では交わしきれず、そのまま力負けしたのが今年の民主党政権である。

 そもそも民主党は、歴史も浅く自分たちの土台がしっかりしきる前に政権の座についてしまった感があり、その組織作りは完全なものでは無かった。

 そのため小沢問題然り、尖閣諸島の事件の問題も然りで、思うように党内の意思を統一できず、その醜態を露わにしてしまった。そしてその敵失を捉え、さまざまな既得権益を持ったグループがそれぞれの利益を確保するのに必死に動いた節がある。

 

 それはマスコミも例外では無く、新聞、TV業界もそれぞれ自分達に利益が来るようにある意味世論操作をしようとしていた。しかし、それが機能したのは、過去の事で、既に若者世代はその情報に影響されない所で生活をしている。そこでやはり権力者たちは、そのインターネットの世界でも情報操作を行おうとしていた。

 

 ネットで情報を拡散させるのは可能だが、その情報を如何に効率よく見せるかが問題であった。そのため、一部の層だけがその情報を取得することが可能であり、インターネットの閲覧者が全て強制的にその情報に接続させるのは困難を極める。

 今後、色々な権力を持った者は、自分たちがある程度情報操作できる環境を求めてくるだろう。またそれとともに制限が出来るネットワークの構築である。

 インターネットが生まれたときは、何も制限が無かった。それは国という体制にとらわれない自由を謳歌できる場所であった。それはネットと呼ばれる空間を使用する人間が限られていたからできたことである。

 しかし、その自由な空間に誰でもが出入りできるようになると状況は変化する。いつまでも自由な空間でありたいと思うグループの弱点を内部に抱えた。

 

 その弱点を突いたのが、児童ポルノの制限である。極一部のマニアが必要とするものであるが、多くの人間にとって不必要なものである。それを見ることを禁止することに大半の人間は反対しないだろう。 さらに言えば、反対することは児童性愛者のレッテルを貼られてしまうだろう。

 そしてインターネット上で一つの制限を掛ける道具を支配者に与えたと言って良い。もし本当に自由を求めるなら、そういった制限をどのように技術的に解消するか自分たちで最初に作ら無ければ権力者は、それを逆手に取ることは予想できることである。

 自由は、その制限された範囲内で行われるべきなのは自明のものである。もしそうしなければ自由が守られないからである。そしてネット上の自由を求める人間の多くは見知らぬ人たちで、強固なつながりを持っていない。そのため意思表示をしようにもそれは簡単なことではない。それはバーチャルが故の悲しい現実である。

 インターネットの未来は決して明るいものでは無い。逆に言えば、いつでも中国のような限られた世界の中のネットに変化しうる可能性がある。

 そしてそれを使った犯罪、情報操作は今以上に巧妙になり、世界をも一瞬で危機に陥らせるようなことが起きうる。例えば、核保有国のネットが巧妙に乗っ取られ、核兵器を使ったテロが起こりえないとも限らない。それは利便性と隣り合わせに持つセットのようなものである。

 誰もがネットを支配することは不可能だが、それを使って色々な操作が出来ることも事実である。それは犯罪者であれ権力者であれだれもが企てをめぐらすことの世界に、今後どんどん向かうのは間違いない。