犠牲

 雨がぱらつく、ゴールデンウィークの谷間。気温は、体感的には零度に近いくらい冷え込んだ。実際は5,6度だろう。5月ということで薄着で外に出ると痛い目に合う。

 人の命を守るために色々な規則や施設が作られる。その一つは、交通規則だろう。あの規則は、人を安全に行き来させるために作られたものだろう。

 最初は、歩行者に対する決まりが無く、自動車が王様のように振る舞っていたため付け足しで歩行者の安全を加えた規則のように思える。

 

 それは、運転する運転手が相手に危害を加えないため、その相手は歩行者ではなく車である。その次に歩行者の安全が来る。そうでなければ、歩行者の通路が車道と明確に分けられていない道路が作られるはずはない。

 今の道路は、対向車がすれ違える道幅が求められ、歩行者がその横を歩くということは想定されていない。道路の拡張工事も車線を増やし、車を如何に通行させるかが主題であり、その脇に1mほどの歩行者通行帯があれば十分と考える役人がほとんどである。

 そして、日本社会が豊かになり交通網が発達し、車を使わない生活が都会で始まると同時に漸く車社会の見直しが始まった。しかし、今までの人間への教育は、車を運転するものが主体であり続けたため、一時停止ラインが有っても相手はあくまで車であると考える運転者がほとんどである。人間が渡ろうとしても自転車が渡ろうとしていてもそれを無視しようとする。

 

 例えば、信号機の無い横断歩道で横断しようとする歩行者がいれば車は一時停止することになっている。しかし、それを守ろうとする運転者は誰もいない。

 そのため、国は押しボタン式の信号機を設置することになる。しかし、その信号が変わろうとする直前加速し目の前の信号が赤になっていても通過する車が後を絶たない。

 本来なら押しボタン式の信号は、横断歩道の前で徐行あるいは、横断しようとする人が居れば停止する運転手が全てなら必要のないものだった。

 人間のために道路交通法があるのではなく、車という機械のために作られたものである。そうでなければ、あれほど歩行者を無視した法律は無い。あるのは、事故を起こさず安全に車を通行させるかということである。そこに人間優先社会の考えは見られない。

 

 人が少なからず犠牲になっても、人間社会が物流や移動手段として豊かになればその犠牲も許されると考えているからである。もし、よど号ハイジャック事件で語られた、「人の命は地球より重い」という言葉が本当だとしたら、まず最初に車社会が見直される筈なのだが、時の政府がそんなそぶりを見せたことは一度もない。

 今回の原子力発電所事故についても、もし人間の命が大切なのなら、まず今稼働している原子力発電所が本当に安全なのか議論され、人間の手で制御が不可能なら一度すべての原子力発電所を停止させるのが本来の行政の姿だろうが、そこに人間に対する安全性は置き去りにされ、日本の今後の経済発展に目を向けられ議論が始まる。

 日本の経済発展には、原子力発電が欠かせないもので無くせないというところから話が始まっては、どこに人間の命や生活の視点があるのだろうか。まさしく本末転倒の議論から話は始まろうとする。

 あのハイジャック事件の時、人間の命の大切さを唱えることでハイジャック犯の言うことを聞き、北朝鮮へ身代金ごと渡したのは何だったのだろう。あのよど号の乗客の命は、交通事故で亡くなる小学生の命や、今回の原子力事故で不幸にも甲状腺がん白血病に罹患する人間の命より尊かったのだろうか?

 人が生きて行くということは、少なからず人の命を犠牲にする。その自分だけが、家族だけが生き残れれば良いというエゴイズムは自分も犠牲になって良い一人に含まれているという事に気付いていない。

 自分の命を本当に守りたければ、他の人の命も守らなければ達成できないのだ。