セシウム

 曇り、時折霧状の雨が降る。当然湿度は高い。


引用 NHK(http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110712/t10014141501000.html) 

農家の牛肉 9都道府県で流通

7月12日5時16分

福島県南相馬市の農家から出荷された11頭の肉牛から、国の暫定基準値を超える放射性セシウムが検出された問題で、この農家が、原発事故後、屋外に置かれたわらを、すでに出荷された別の6頭の牛にも与えていたことが分かりました。また、6頭の牛の肉は、すでに明らかになっている5つの都府県の卸売業者を通じて、千葉県や徳島県、北海道など、9つの都道府県の小売業者などに流通していたことも分かり、東京都などが引き続き、詳しい経路を調べています。

 この農家の人がどんな気持ちで牛を出荷したか不明である。マスコミも原発被害者でもある農家に対して過度の取材を行えば、それが回りまわって自分たちが非難の対象になることを怖れ今は様子見の状況である。

 この農家の人にとって、牛を食肉として出荷することが自分の幸せになると考えたのだろうが、本当にそうだったのか気持ちを推し量ることはできない。

 しかし、今の状況で牛を出荷することが適切であったのか冷静に考えれば無理であることは農家本人も気づいていたのではないだろうか、もしそれを気づいていながら牛を出荷したのであれば、それはまさしく自分以外の人間に対する復讐でしかない。

 そこまで追い詰められていないことを祈るばかりである。

 

 最初に原子力発電を言い出した人間にとってこのような事故が起きることは想像していなかっただろう。開発当初色々な技術的な問題、欠陥もその後の技術力の進歩を考えれば何とか対応できるだろうと、色々な問題先送りにしたまま原子力発電は続けられてきた。更に、その間今回のような大地震が起こらず過ごしていく間に、画期的な技術が開発されるわけでもなく、核のごみ処理問題も先送りを続けてきたわけである。

 原子力発電を続けてきた関係者にとって、今が安全ならこの先未来永劫安全であると考えていくのは無理もないことである。事故は忘れたころにやって来るからである。

 そして、その発電という行為のみが自分たちの使命であり、重大事故を怖れて今の事業をストップすることは考えもできないことであるし、その行為が現実に他の人間の生活を支えているという自負があったのだと思う。

 自分たちの正しい行為が多くの人に利益を与えているのだという考えだけで、本来起こりえないと考えられる事故に対応するのは、資源の無駄であるし、考えること自体無意味なことでもあったわけである。

 今回の農家の人にとっても、政府が少量の放射能は今直ちに人体に影響を及ぼすレベルでないと繰り返し述べているのであるし、実際自分もその放射線を浴びて暮らしているわけであるから、牛肉に含まれるセシウム放射能など取るに足らないレベルであるともいえる。

 しかし、福島に居ない人間にとってその牛のセシウムのレベルは、当然受け入れられないレベルであり、食肉として流通すること自体許されるものではないと考えているだろう。それが正直なところである。

 誰かの幸福は、必ずしもすべての人の幸福には繋がらない。そのことにより結果的に不幸になる人間が生まれてくる。すべての人間が幸せになるように人間社会はできていない。

 本来ならすべての人間が幸せになることができれば最高なのだが、色々な利害が絡み合いある時は利益を得、ある時は不利益を被るようにできている。

 今回の件、すぐさま健康被害が出るようなレベルではない。福島県産の野菜が安全と宣伝されていたように。今回も摂取する量が少なければそれ程影響を与えないレベルである。

 

 しかし、それでも消費者が全く無害なものを求めるならそれは流通されるべきものではないだろう。しかし、例えば残留農薬が基準値以下であるなら流通させて良いとするなら、今回の牛肉も同様に基準値以下なら流通させるべきものだろう。

 流通させてその牛肉が消費者に受け入れられなければその肉は淘汰されるだろうし、もしかすれば色々な流通経路をたどりあるいは加工を加えられ消費者によって消費されるだろう。

 今言えるのは、牛肉に残留する放射能の基準値を明らかにすると同時に、産地を明らかに売るしかないだろう。今回、牛肉がやり玉に挙がったが、今後数年あるいは数十年は、牛肉に限らず、魚、野菜など全ての物に放射能の影響は避けて通れないものとなるだろう。

 

 この先、何年間も掛けて日本人の体内に蓄積されていくだろう。それは、原子力発電という未知のものに挑戦しそれを受け入れてきた日本人の受けなければならない負担の一つである。