年の瀬に思う

 晴れ時々曇り、気温はマイナス5度くらいだろう。雪を踏みしめるたび靴底から泣き砂のような音が聞こえる。

 

 今年の重大ニュースと言えばやはり、[311]だろう。この数字は自分は生涯忘れることは無いだろう。それ程人生で一度位の経験だった。

 あの時、揺れる建物の中で思ったのは、「日本の終わりの始まりが来た」であった。

 

 急いでTVを見ると、建物の倒壊のニュースは、阪神淡路のような建物の崩壊もなく、これなら大丈夫と一安心したところに大津波のニュースが流れたのだった。

 あの映像は、言うなれば黙示録という映像であった。地上の人間が構築した人工物を全て流しつくしてしまうような、人が抗うことができない神の手のようなものだった。

 あの光景を見て、本当に人間の無力さを知ったのである。

 今、自分には普通に年末、そして正月を迎える毎年恒例のスケジュールがやってこようとしている。

 それが当たり前の様に思っている感覚が普通なのだが、この普通の日常を送れるはずだった多くの人々の人生の存在というものを考えさせらるのである。

 平穏な日常は、まるで砂時計の砂のように上から下へ重力の力で落ち続ける。あのガラスの瓶の中に砂が落ちるのを邪魔する者は存在しない。

 それが当たり前だと思っていたことが、その砂時計毎破壊されることによってその動きが止まってしまうことなど誰が想像しただろう。

 我々が生きているこの普通の日常は、砂時計の中の世界のようなものである。あの薄いガラスの壁に守られているに過ぎないという事を、自分に実感させた出来事であった。

 もし自分の人生がまだまだ続くなら、その薄いガラスが敗れるような出来事に巡り合いたくないと思う。もし、毎日代り映えしない日々が続くと判っていても、できることならその殻に閉じこもっていることを望むだろう。

 大震災の時からも毎日地球上では多くの人が無くなり、そして新たな生命が誕生する。その普遍的な流れの中で、自分もその一つの砂粒のように生きて行くのだろう。