土曜日の試合を振り返る

 晴れ、道路に残った雪は、日中の太陽の光で融かされた後に凍ったためザクザク氷になり、歩く度にザクザクという大きな音を響かせる。気温はマイナス5度前後である。


 先週の土曜日に愛媛で行われた試合をもう一度自分なりに振り返ってみる。

 試合は、2−0でホームの愛媛に敗れたのだが、何故負けたのだろう。その原因の一つは、監督の責任である。それについてはもう何度も繰り返してきたので余り述べたくないのだが、あの戦術をこなし勝てるチームはそうそうない。隠した相手には通じるかもしれないが、同じレベルや格上のチームには通じない。なぜなら相手に守られた後に攻撃するためには技量でかわすしかないがそのレベルの選手は札幌にはいない。

 そしてもう一つの原因は、選手たちが何故あの芝生の上でプレイしているのか自覚していないことだろう。

 何故そう思ったか、それは相手チームの斉藤選手の存在であった。彼は画面を通して素直に芝生の上でサッカーができる喜びを体現していた。
 
 それは、あの青空の下で多くのサポーターに声援を受けながらサッカーができる喜びである。

 札幌の選手の顔にあるのは、自分がそこにいるという喜びではなく、仕事として義務をこなす顔であり、試合に勝利することのみに執着する欲のようなものである。はっきり言えば心の余裕を無くしてしまっていた。

 あんなに悲壮感を漂わせて90分間試合を続けられるだろうか?どこかで心の隙を生み、ミスをする。それを繰り返すことで余計勝たなければという気持ちばかり強くなり周りを見渡す心の余裕を失う。悪循環である。

 まずあの試合は、38分の1の試合である。まだ37試合あるのだ、そのうちの一つを失うことを怖れて勝ちきる心を生み出すことはできるだろうか? そんなことは生身の人間には不可能だろう。それが選手も判っていないし、監督も判っていない。

 コンサドーレ札幌の選手、監督、会社にとってあの試合をする目的は何だったのだろう。J2で優勝するため、J1に昇格するため、会社を存続するため、いや違う、まず最初にあるべきは、多くの人にサッカーの素晴らしさ、試合の面白さを見せつけることである。
 あの緑の芝生の上で、丸いボールを蹴りあいそしてボールをゴールに入れる。それを楽しみ、見ている者たちもその面白さの片鱗に触れることのできる試合をすることである。