晴れ、昨日の雪で幾分空は透明度をました。いわゆる青空が広がっている。気温はマイナス5度くらいか。
あの3月11日から、日常は変わらないのだが、いつその影響が自分の身辺に及んでくるか、先が見えない不安というものが常にある。そのため、本来なら気晴らしにする運動や買い物もその影がいつまでも自分の影に纏わりつき離れようとしない。
被災しなかった自分がそうなのだから、実際の当事者は毎日不安な気持ちで過ごしていると思うと可哀そうという気持ちが自然とわいてくる。
毎朝、入るシャワーの便利さも、電子レンジで食事を温める便利さをふつうのように繰り返す日常が、本当に恵まれていたことに感謝しなければならないのだろう。
日常と非日常の暮らしは、本当に紙一重の差である。その差は、本当にわずかであるということが良くわかる。その差を知らずに生活できることがどれほど幸せであるか。
その土台の上で物事を考えていく必要があるはずである。その日常の積み重ねが大切であるということを実感して生活を送らなければならない。
引用 読売新聞(http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20110403-OYT1T00709.htm?from=y10)
震災後世論調査 首相の指導力不足に厳しい声(4月4日付・読売社説)
東日本大震災と福島第一原子力発電所事故を巡って、菅首相は指導力を発揮していない――そう見る人が、読売新聞社の震災後初の世論調査で約7割にのぼった。
その緊急時に、相も変わらず足元を掬おうとする話題を提供し続けるマスコミ。そしてそれに世論が流されていることを利用してさらに世論を誘導しようとする。
何が正義か今一度、マスコミは考えなければならないのではないだろうか?もしかするとマスコミはその時々の総理大臣や政府、政党を攻撃し、それにより何らかの影響を及ぼすことで自分たちの存在意義を確かめているのではないだろうか?
まだ自分たちは、世論を動かす力があるという事実を確かめたいのだろう。だから、各人の失敗をあげつらいその失敗を避難することが自分たちの欲望を満たす。その快感を麻薬のように常に得るために、マッチポンプの作業を厭わない。
昨日、TVで「明暦の大火「の時に手腕を発揮した保科正之の話題を取り上げていた。その人がいかに優れていたか見てきたようにほめそやかしていた。
もう誰もが知らない時代の事を美化していうのは構わない。しかし、本当に保科正之が全てを考えたわけではないだろう。色々な人間が危機的状況を乗り切るために心を一つにして事業を行ったに違いない。
そしてその時代にも心無い人間がいて、その幕府の政策に文句を言った人間が少なからずいたはずである。さらにそれが情報網というものが無かったが故に、それ程大きな影響を及ぼさなかったのだろう。
もしその時、今の日本のマスコミが存在すれば、その保科正之の些細な失敗を大きく取り上げ情報として流して、足を引っ張ろうとしたに違いない。
日本人が一つにまとまって事に当たらなければならない時に、何故マスコミは足を引っ張ろうとするのか?それはまさしく権力の暴走でしかない。その暴走するマスコミを止めることはなかなかできない。その暴走を止めた時は、時はすでに遅く、甚大な風評被害をもたらしている。
昨日放送された、テレビ朝日の「ザ・スクープ」「北九州八幡東病院の爪切り事件」の放送の中でマスコミの報道姿勢をマスコミの一員である人間が痛烈に非難していた。
確かにマスコミに追及により社会が浄化される場合も多くある。しかし、それとともに無実なのに被害を蒙る犠牲者と呼ばれて良いような人も数多く存在する。その存在をマスコミは忘れてはならない。
自分たちの報道というものが公器にもなるし、一般人を傷つける凶器になることを。