記憶

 雨が上がったところ、曇り空で更に気温も零度近くに下がった。今週は、ぐずついた天気が続いている。

 
 人間の記憶は曖昧である。昨日の記憶、一昨日の記憶、というように記憶を遡っていくと、覚えている記憶とそれ以外というように斑状に記憶が残っていることに気付く。

 たとえば、昨日食べた朝食のおかずの内容は不鮮明だが、ある風景は記憶に残っていたりすることである。その記憶の取捨選択の基準の不明確さには驚くべきものがある。
 その一つが人の名前だろう。最近では新しい人の名前や、今まで覚えていた人の名前が出てこない。それは、日頃名前を声に出して呼んでいないからだろう。声に出していればそれなりに覚えているのだが、相手の名前を呼んで会話をしていればそれなりに覚えてはいるのだが、それすらも怪しくなっているのはやはり年齢からくる衰えだろうか。

 何故、人間の記憶が半導体メモリのよう永久に保持できないのか、その辺りの秘密を探り出す必要があるだろう。

 人間の記憶は、忘れるためにできているとある人は言う。まさしく人の記憶が半永久的に覚えこまれるとしたら、悲しみ、怒り、恐怖の記憶をどれだけ抱え込めば良いのか判らない。
 その記憶を、曖昧に保つことで、危機回避能力を備え、更に感情のコントロールが可能になるのだろう。それなくしては、人ととの生活はできない。

 また半導体メモリーのように記憶領域が足りなくなれば、不要な記憶は選択して消すことができる。人間の脳も記憶領域に限りがあり、その領域を超えた記憶は、自然と消されるのだとしたら納得がいく。ただ、ファイル管理のようにきれいにここからここまで消すというようにはできなく、余り活性化していない記憶が消されそれと同時にその周囲の連鎖的記憶も消されてしまうのだろう。

 それでなければ、必要と思われる記憶までもが消えてしまう理由が判らない。何十年も生きてくると、昔の記憶をどれ程覚えているかが良くわかる。あの小さいころの一年の間に記憶したであろう記憶で今も残るものは、たった数秒程度のものでしかない。
 つい去年の記憶だとしても、それを全て合わせても数分程度のものすごくコンパクトな記憶にすぎないだろう。それを考えると人の脳の記憶容量のコンパクトさに驚く。

 ただし、学んだこと覚えたことの記憶に関しては、事象の記憶に比べ異なる。その記憶領域は別なところに潜んでいると言って良い。まあだからと言って記憶が小脳と大脳に分かれているというのではなく、大脳のある領域に各々別れて存在するのではないかという程度のものである。
 
 話は、戻り、脳の記憶領域が半導体メモリのように取捨選択できるのだとして、うれし楽し記憶ばかりを残したらどのような人間になるのだろうか?本当に幸せになるのか、それともその幸せの記憶さえもまた細分化され強弱がつけられてしまうのだろうか、それとも更なる幸福を求め世界を彷徨うのだろうか。