声を上げるべきか

 晴れ、近所の庭に、今年初咲きの桜を見た。漸く桜の季節が到来した感がある。

 
引用 毎日新聞(http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110509ddm002040112000c.html) 

東日本大震災:首相、風評被害も「補償すべきだ」 福島産品店を訪問
 菅直人首相は8日、JR東京駅近くで福島県の産品を販売する「福島県八重洲観光交流館」(中央区)を訪れ、日本酒やみそなど11品目計8158円分を買い、福島第1原発事故の風評被害に苦しむ被災地にエールを送った。首相は記者団に「風評被害も含め(東京電力に)責任があるものは、ちゃんと補償すべきだ」と述べた。

 
 声を上げなければ救いの手を差し伸べられない、更に声を大きく出さなければ誰も見向きもしない。じっと声を潜め我慢をしていたらそのまま通り過ぎるだけであることが今回の災害で良くわかった。

 普段なら、音を上げるのは美徳と言われなかった。じっと痛みに堪えそれを隠すことが美徳と思われていた。しかし、現実は、その声を待っているのだということを、更に声高々に自分たちの悲惨さを訴え、如何にその境遇を見てもらうかが人生の分かれ道になる。

 今回の被害で、声を出さずじっと我慢し、何らかの手助けが向こうからやって来るのを待つ人が大勢いるのだろう。先に手助けを求める人たちを横目で見ながら、自分たちは耐えられるところまでじっと我慢をしている。

 かすり傷程度の怪我ともいえない怪我で、大げさに泣き叫び助けを求める人がいる。そしてその陰で本当に声を出して欲しい人がその痛みに耐えてじっと順番が来るのを待っている。
 痛みをこらえている人も決して自分の助けを後回しにしてほしいと思っているわけではない。自分よりもし大怪我をしている人がいないか考えながら待っているのだ。

 しかし、世の中は、その大げさな人間が騒ぐことを抑えるために、何らかの処置を施すことになる。それを済まさなければ他の作業が進まないからである。
 
 今回の大災害、助けるべき人は、大勢いる。しかし、対して怖れなくていいことにパニックになり悲鳴を上げている人間にどうしても目が行きがちである。それをどのようにバランスよく対処するか、その任にある人間に任せるしかない。