避難勧告

 晴れだが、気温6,7度で風が少し強い。昨日の寒さがまだ残る朝である。それでも日中の気温は上がり暖かくなるらしい。

 
 今回の東日本大震災でつくづく思うのは、マクロ的な見方とミクロ的な見方とを同じ土俵で議論すると結論は出にくいということである。

 例えば、今回の福島の緊急避難の場合、マクロ的には、住民の生命を守るために原発から20km以内に住んでいる人を避難させることにした。この時福島原発が最悪の場合、原子炉格納容器が爆発して放射性の塵や放射性同位元素による被曝が発生すると考えられたからである。

 この一律20kmは、この時期の避難範囲では妥当と思われる。もしアメリカのように80kmを避難範囲とした場合、避難対象の人数は、8倍(福島原発は、海沿いにあったため避難範囲は丁度半円となるため)となった。その際の避難方法は、今回は車や徒歩に限らざる負えず、更に避難先の確保の観点からいえば直ちに避難できる範囲の人数を制限する必要があったと思われる。

 しかし、この緊急避難では、搬送が難しかった病院に入院中の患者などは取り残された。移動させる方法が無かったからである。これがもし本当に福島原発で大爆発が起こり逃げ遅れた20km圏内の住民が多大な被害を受けたとする。そのおそれが過分に有ったのだから厳密にすべての住民を避難させなかったとしたら問題になるだろう。

 今回幸いに、大きな大事故とはならずに済んだが、病院に入院されていた方の何人かは亡くなられた。

 では、国は避難命令を出さない方が良かったのか?と問われれば、これは出して良かったということになる。もし出さなければ、多くの人間が被曝しただろう。
 しかし、その際すべての住民の避難ができたかというと、実際はできなかったため問題が生じた。ミクロ的な見方でいえば、すべての人間が避難勧告に従ったわけではない。その一人一人の人命の観点からいえば、避難勧告が出された時点で国は最大の避難援助ができたかという問題は生じるが、もしその最大限の確保がされているなら問題とされないだろう。

 しかし、問題はなぜ生じるかと言えば、今回幸いにも大爆発は起きなかったため、本来なら避難に時間的余裕は有ったことになる。もしそれが判っていれば、飼い犬や飼い猫、家畜までも十分避難させることはできただろうという話が出てくる。
 
 マクロ的には、20km以内の避難できる住民を対象に避難させ、最大数の人命の保護に努めた。しかし、ミクロ的な見方からすれば、そのすべての住民を避難させることはできなかった。

 では、このような緊急事態に国が行うべき最善の方法はどうだったのかと言えば、やはり最大数の人命の救助でしかないだろう。その間で失われる犠牲は、やはり生じるということを前提としている。
 
 しかしである。その失われた人命、犬、猫にもやはり物語があり、それが簡単に失われてよい事ではないのは確かである。でも今後の議論からいえばその、多くの失われた物語の多くを同じ土俵に上げるのはふさわしくは無い。

 今後、このような大災害が起きることは間違いない。その時に備えやはり論議は必要である。国がなすべきことは、やはり最大数の人命の救助だろう。そのために最善な方法をとることを中心に話し合われなければならない。

 ここまで書いてきて、少し考えがまだまとまっていない。マクロとミクロという政策は、相入れるのかそれとも相容れないものなのか