日本製品

 少し湿った風が吹く朝である。曇り空の天気はいつ雨が降り出してもおかしくは無い。

 日本の中で、徐々に大量生産、大量消費というサイクルが崩れつつあるように思う。日本が工業国として世界に認められた頃から、売りは製品の壊れにくさに有った。それにデザインがついて更に多機能になりいつ使うか判らない機能が追加された時、そこから徐々に日本製品というブランド力を失ってきてしまった。それと同時に、日本人の好みがかわってしまった。

 そこから日本の工業製品の作りは非常に保守的になってきた。例えば売れる自動車のデザインは模倣され、売れ筋ばかりを追い求められ、何かの売れた商品の亜流のようなものしか出回らなくなった。

 そして、頑丈に本体はできていても、電子部品の品質は、それ程でないため数年で寿命が来てしまうような製品が出回り始め、そこに安心の日本ブランドというものがほとんど存在しない状況を見るにつけ、今までの歴史はという状況に成り果てた。

 確かに、売れている商品を真似ることで、開発費は抑えられ、安心して売ることができる。そうすれば失敗する割合は抑えられる。しかし、その反対に消費者としては、少しでも周りと差別化されたものを使いたいという欲求が生まれる。

 日本製品は、売れ筋を求めるあまり、意欲的な製品を開発する能力を失ったともいえる。そのことが今の日本の工業力の低下を生んでいるのである。

 良いものは真似される。それは普遍の定理である。今、飛ぶ鳥を落とす勢いのappleだって、色々独創的な製品を生み出しているが、それは直ぐに模倣されている。しかし、その模倣されることを前提に次々と新しい商品を生み出す力が存在するから強い。

 それが無くなればすぐにでも消えて行く運命にある。真似されることを怖れるのではなく、真似されても尚、新しい製品を生み出す力を持たなければ永遠はない。

 例えば、世界の9割を売り上げる隙間商品を製造する会社が有ったとして、いつそれが使われない時代がやって来る可能性が常にある。その製品そのものの技術の進歩と同時に、それが消え去ることが何時でもやって来る。

 冒頭に書いた、大量消費、大量生産の時代は終わり、今は、品質と差別化の時代を迎えたと言って良い。それは、日本人が年老いたからともいえる。年老いたものに高機能な製品を使いこなす気力は生まれない。何があるかと言えば、安定である。そして周りと少し違ったテイストがあるものを欲しがる。それは決して世界で一台と言う品ではない。世界で100台くらいが妥当だろうか。

 

 そこを狙った商品を開発する企業が日本の主流になるのではないだろうか。しかし、その世界で100台程度の品を次々と生み出す発想が、それを作る日本人に無ければいけないのだが、今の日本企業の中にそれは有るのだろうか?

 例えば、世界のトヨタであるが、ハイブリッドカープリウスはそこらじゅう走り回っているが、それで町の中の見栄えが良くなると考えているのだろうか?あれだけ同じ車が走っていることで、車に乗る楽しみを与えることができているのだろうか?

 逆に、あの車は、性能とは別に乗り手の楽しみを奪う車である。個性的があるが故に、販売台数の増加は、個性を失わせる。もし、そういった没個性を嫌がるなら、半年、一年で少しずつ形を変えるような工夫が必要だっただろう。

 他のメーカーも同様である。売れる車目指す余り、個性を失い、どのメーカー車か判らないようなデザインを氾濫させた時点で、乗るものに運転する楽しみを放棄させたと言って良いだろう。