監督采配

 雨。昨日は、巨大フラッシュがたかれたような雷も落ちていた。

 昨日も札幌ドームで日本シリーズが行われ、テレビでもライブで放送していた。一方的な試合にはなったが、それでも試合終了まで放送するのは日本シリーズだけだろう。

 あれだけ、直接ドームで見る人や、テレビで見る人がいるのも日本シリーズというネームバリューが有るからだろう。やはり日本一を決める戦いは、どのスポーツでも面白い。

 その反面、シーズン中の試合は、ただ長いだけで、だらだらした展開が続き、コンテンツとしては魅力に乏しい。それはどのスポーツにも通鶴のかもしれないが、やはりそれでも見に行くのは、応援するチームがどんなやり方であっても勝つところを見れるという事だろう。

 サッカーにもそれが言える。ひいきのチームが、カウンター一発で勝負を掛け、それ以外はガチガチに守り勝ったとしても、勝利はうれしい。

 しかし、その応援する人たちの間にも、負けてもいいから攻め続けて欲しいと願う人もいる。負けてもいいならプロスポーツでは無くアマチュアである。どんなに攻め込んでも相手にそれ以上の得点を入れられてしまえば負けは負け、負け続ければ、どんどん下位リーグに落ちて行く。以前なら、J2というどんなに負けてもそれ以上、下に落ちない気安さが有ったが、今のJリーグは、負け続ければJFLまで落ちてしまう。そんなチームを最後まで支えてくれるスポンサーが有るだろうか?

 そんな気前の良い人が居たらコンサドーレに紹介してほしいものである。

 やっている選手は、サッカーの試合に出ることで給料をもらっている。一度、チームが下のリーグに落ちれば、給料は下がり生活できないレベルにまで落ちてしまう。更に解雇されてしまう危険が伴う。もし、活躍が認められれば、海外への移籍もあるのだから、チームが勝つことに越したことは無い。

 そういう意味で、監督の采配は、選手の生活をも支配していると言って良い。だから負け試合を続ける監督は、無能である。勝てないのならプロの資格は無い。そういう意味で、コンサドーレ札幌の監督は、無能だった。如何に選手のコンデションが悪かろうが、選手の能力が低かろうが、それは言い訳にならない。そういう状況でも勝つことが使命になる。それは自分の首や将来がかかっているのだから、選手に対しても冷酷になるのも致し方が無い。それで結果がついて来れば批判などへの河童である。

 そして、昨日の日ハムの試合なのだが、先発の吉川が打たれた後の交代時期の判断である。あの3回の場面、1-2と一点差まで追いついたのに、巨人が得点圏に走者を貯めた時点で交代するのが普通の采配だろう。

 こちらが勝手に想像するに、今年のエースだった吉川への恩情が見え隠れしていたと思う。あそこで押さえてくれることで来年もエースとしての活躍を期待したのだろう。そして結果的に最悪の選択となった。

 あれは、プロの監督なら、ランナーを出したところで交代だった。それで試合に勝つことで他の選手を成長させることができたはず。それを捨ててまで一人のピッチャーの将来を掛けた采配だった。それが裏目に出たのは、勝負師としては非情に慣れなかったという事だろう。

 これで栗山監督は、名将ではなくなった。半プロと言って良いだろう。まあ、ここで負けたとしても、今年パリーグで優勝したのだから、来年の職は保証されているのだから、監督にとって何の問題も無い。しかし、あそこで交代させ負け試合になっても、次に投げさす場面も出てくる可能性があった。あそこまで打たれてしまえば、もう次は無い。

 

 まあ野球は、それぞれ6球団づつで守られた狭い世界のスポーツである。いくら負け越そうが、下に落ちることは無い。万年最下位でも球団がつぶれることはまれである。だからできた采配だったのかもしれない。