サービス社会の限界

 曇り、気温は零度近くて寒い。


 最近自分も含めて日本人のサービスに対する閾値が非常に下がっているように思う。昔なら、高級ホテルくらいしかしてくれなかったサービスを、外食店などでも行ってくれるところが有る。それはかなり見よう見まねで取ってつけたようなサービスであったとしても、昔なら考えられなかったことである。

 昔の飲食店なら、まあそれに似た店は今でもあるが、水滴のついた洗い立てのコップをドンとテーブルに置き注文も聞かずに店の奥に引っ込むような店ばかりだったのに、綺麗に拭かれたコップに水を注いで持ってくるのが当たり前のような感じになり、たまに昔ながらの店に出くわすと面喰ったりする。それが当たり前というようにサービスの水準が上がってしまえば、それが当たり前になり、それ以上のサービスを行うところが更に上のサービスを目指すようになる。

 それは、サービスの質による他店との差別化を果たす重要な要点であるのは間違いない。しかし、考えてみれば判るようにサービスをしてもらうのにはそれなりの対価を支払う必要がある。以前と同様な対価でそれ以上のサービスを求めるにはどこかをはしょるしかない。

 

 例えば、料理の材料の質を落とす。例えば店員の人件費を落とす。既に材料の質がコスト限界にきて更に質を落としてしまえば味に影響が有る。いくら丁寧なサービスが有ったとしても店本来の味が落ちれば集客力が弱まり経営にマイナスとなるので、これ以上の原価を下げられないのなら、やはり人件費を落とすしかない。同じサービスが提供できるなら、正社員は不要である。パート、アルバイトが店の従業員の主流となる。

 その店員の教育も人件費がギリギリなら紙切れのマニュアルを渡して覚えてもらうか、そのパートかバイトの経験者に見よう見まねで教育してもらうしかない。そんな店に長く勤められるパート、バイトは少なく、最終的にサービスの質は低下する。

 しかし、店に来店する客は、以前のサービス、或いは同業種の店のサービスを記憶しているため、そのハードルはどんどん高くなり、店と客とのサービスの質に対する考え方が異なってくるわけである。

 やはりきちんとしたサービスの質を求めるなら、やはりそれなりの投資をしなければならないし、それを受ける側もサービスに対してある程度の対価を支払わなくてはならない。

 今の現状は、そのサービスの質がある一定レベル以上でないと文句を言う客が増えたせいで、お互いに精神をすり減らし始めた時期に差し掛かったと言って良いだろう。

 今後、重要になるのは、サービスにはやはりお金が必要な社会であると皆が知る必要があるだろう。サービス重視か価格重視かきちんと表示するという事である。例外的にサービス料を含まずにモノを提供できるところもあるだろうが、そういう店が有っても構わない。

 自分の感覚でいえば、普段は、セルフサービスでもおいしくて安い店。時たま、素敵なサービスを受けれておいしい店という風になるだろう。

 サービスはギブ&テイクである。もし自分が本当に良心的なサービスを受けたいのなら、自分が他者に対して積極的にサービスをする状況でなければ無料で快適なサービスを受けられる社会など存在しないという事である。