続き

 薄曇り、気温はマイナス15度くらいには下がっている。顔を外気に触れさせて置くと小さな針が刺さるような感覚になる。


 昨日の続き。

 昨日も述べたように、人それぞれの幸福に対する尺度が異なる。更に多くの人が幸福になる政策でも必ず不幸と感じる人が生まれる。その例が、双葉町の例である。

 少し続きを書きたい。

 全ての日本人が幸せになる政策は殆ど無い。誰かの幸福は、どこかに犠牲を生む。そういった例は、今までの歴史の中で例を数え上げれば切がない。

 では、どうすればある程度その満足度をカバーできるかと言えば、幸福を得た人が不幸になった人にその幸福になった分の再分配を行うことである。


 日本の国がお金持ちにとって有利な法律を作るのは構わない。そこで利益を得た人間が自主的に利益を再配分すれば良い。
 
 それが可能であるなら、自由競争という名の元で社会が運営されていくだろう。

 しかし、その理想を語っても実際の社会は、利益を上げた人間がその利益を自分の意思で再配分するようにはなっていない。
 更に悪いことに、社会の色々な権力を持った人間は、その権利を嵩に自分たちも何らかの利益を上げようとする。
 それが今の世界の政治と呼ばれるものである。利益の再配分を利益を得た人間が行わない。それを再配分するために国家ができる。その国家もまた自分たちに利益が回るような仕組みを作り上げる。

 そのため利益の配分は、非常にアンバランスなものになる。それは、ある意味時の流れにできた垢のように国家にこびりつき、いくら制度を代えて身軽になろうとしても中々良くならない今の日本の現状に似ている。

 本来なら、こういった停滞した世の中が続けば国内で革命が起きる。ただまだ日本の国民の大半が今の世の中を変えてまで制度を変えたくないという思いがあるため、自民党から民主党への政権交代という形で態度を示しただけであった。

 できるなら、民主党政権が次に消えるとしても、後世に政権交代にも少しのメリットが有ったのだという事を知らして終わりにしてほしい。

 最後っ屁が「消費税」だけで終わってしまうのは悲しいだろう。