実名による情報発信

 うす曇り、気温はマイナス10度以下に戻ってしまった。

 
 ここ数年、Facebookに代表される、実名に近い道具が使われているが、この先の流行には懐疑的である。それというのも、匿名の掲示板が先に栄えた歴史が日本にはあるからである。

 日本でも、インターネットの黎明期には、ニフティという実名に近い、ハンドルネームを使用したものが先に登場したのだが、その後、匿名が原則の掲示板が登場した後は、あっという間に姿を消してしまった。

 それは実名ゆえの堅苦しさより、匿名による情報発信の自由さというものが有ったからである。
 
 しかし、匿名ゆえの乱雑さは、あっという間に真実を覆い隠すような泥で満たされるようになる。そして今では、単なる憂さ晴らしの場でしかなくなってしまった感がある。
 たまに良い情報も隠れているのだが、それが真に正しいのか判断するのは、非常に難しい。

 そしてFacebookに戻るのだが、これに実名で登場し情報を発信するのは、自分の姿の全てをさらけ出すことを覚悟する必要がある。
 もし、世界中の人間がこれに登場すれば、見知らぬ人に会う前に、自分のプライバシーの大部分をさらけ出すことになるからである。

 自分が他人に有益だと思う情報を発信すればするほど、それは自分のプライバシーをさらけ出すことになるからである。

 例えば、このブログの記事を日々記録しているが、もしこれが実名とリンクされれば、自分が一体何を考えているか、おおよその人となりが家族以上に判ることだろう。

 情報を発信するという事は、隠さなくても良い情報を発信すると同時に、その積み重ねが、徐々に自分の本当の姿をさらけ出していくことにつながるからである。

 そして、Facebooktwitterが連動すれば、その人が今何をしているかまで窺い知ることができる。twitterなどは、短文で気軽に打ち込むことを求めているために、今何をしているを規則的に打ち込み、写真をアップすれば、その人がどこにいて今何を考えているのかがおぼろげながら想像できるようになる。

 もしそれが、ある限られた情報を公開して良い人に公開されるならまだしも、無制限に公開される場合、もし見る側が悪意ある人間なら、何らかのトラップを仕掛けることは可能になるだろう。

 世界中の人が全て善良な人なら問題は生じないだろう。善良そうな姿をした人間が全て善良だと限らないのが世間というものである。