曇り、時折南風が吹く、気温はプラス1,2度くらい。雪解けが進み、土埃が舞うようになり少しいがらっぽい空気である。
引用 北海道新聞(http://www.hokkaido-np.co.jp/news/politics/361657.html)
【北斗】高橋はるみ知事は31日、東日本大震災で発生したがれきの受け入れ先として調整を進めている太平洋セメント上磯工場(北斗市)を訪れ、受け入れを正式要請した。工場側は「受け入れを検討する方向にある」と回答、北斗市の高谷寿峰市長も「基本的には協力したい」と述べ、受け入れに前向きに取り組む意向を示した。
受け入れる一方で、それに対する反対を唱える人が多く居る。民主主義の原則でいえば、多数決で物事を決めるのが筋である。しかし、それに対して少数派は、あくまでも反対を唱え、多数決を尊重しようとしない場合が生じる。
確かに、多数決がすべて正しいわけでは無い。それによって日本は戦争への道を突き進んだのは確かである。その反省から、日本の民主主義は、本来の姿を変えてきたと言って良い。
マスコミも少数意見を取り上げることで、自分達の主義主張をぼかしてきた。新聞紙面でさえ一貫した主張は行わず、どこに新聞社の主張があるのか判らないときさえある。
さて今回の震災瓦礫の処理に関して、処理を引き受けると表明した市町村に対して、少数派の意見が届き引き受けを再検討する自治体がある。
民主主義の原点である議会制民主主義の原則が、そういった意見によって左右されるという由々しき事態を迎えていると言って良いだろう。
確かに反対を唱える自由はあるだろう。今回の件に関して言えば、汚いものをわざわざ受け入れる必要は無いという気持ちが基本にある。しかし、そこには自分に害を及ぼすもの、及ぼす恐れのあるものを徹底的に排除しようとする精神が根底に流れていると言って良いだろう。
それは、昔、らい病患者が伝染するものとして隔離され自分たちの世界から排除した精神に繋がっている。また、その精神は、人種差別と同じと言っても良い。
そういった空気は、日本全体に広がっていると言っても良い。少数意見であっても声を大きくすればするほど相手の意見をかき消すことができるという事実が浸透するにつれ、何を行うにしてもヒステリー的に声を上げておこうとする人たちが存在する。
そういった、ある意味少数派の意見も受け入れる土壌は社会には必要である。しかし、大多数の人間がそれによる損失をどの程度まで受け入れるかというところで問題が生じてしまうのである。
今回の問題、できるなら瓦礫は、地元で処理することで一つの雇用が生まれ復興の下支えになるのでは無いかと考えるところがあるのだが、余りにも時間が掛かるというのなら、やはり少しでも多くの場所でゴミの処理を進めるべきであろう。そうすることで、復興に弾みを付けなければ、この先この瓦礫の山を積み残したまま忘れ去られた土地となってしまう可能性があるからである。
我々が本当に考えなければならないのは、多くの日本国民の幸せである。それは、決して一握りの人間が幸せを甘受する国ではない。もし、非常に不幸な環境にある国民が居るとしたらその不幸を国民一人一人が受け入れる社会を作ることである。
まさにそれこそが最大幸福社会を作ることにつながるだろう。