日常の当たり前

 霧雨。気温は低い。

 普通に暮らしていると、電気のスイッチを入れれば明かりが点き、水道の蛇口をひねれば水が出て、お風呂ではお湯が出る。全く当たり前の光景として認識されているものばかりである。

 しかし、それが全く異なることも実際に起きてくることは、体のどこかで持っており、一度それが起きない時は、何か悪いことが起きているのではないかと思うものである。

 その明かりが点いたり、水が出たりというのは、全くもって当たり前であり、それが出来ないことが可笑しいと思う感覚こそが異常と思わなければいけないのかもしれない。

 絶えず停電や断水が起きる国に暮らしていれば、その辺り前は、幸運であり。それが実現しないことが普通なのである。

 今この日本に暮らしていて、当たり前に生活することが普通では無く、そういった事が普通でない暮らしがあることさえ実感として持たない人の方が多いだろう。

 そのため、普通の事が実現できないと怒り出す人間が多い。その当たり前が非常に幸運な事だと気付かない。その幸運が当たり前だと思うようにならなければ、この先の未来に生きていることはできないだろう。

 日本人は、過度に普通のことができることに安住している。それは、あの311の大震災の時に気付いたはずである。しかし、その気付きでさえも一過性であり、時間が来れば忘れてしまい。当たり前のように幸運を享受し始めるのである。

 当たり前のように幸運な生活を送れることを、感謝するのは当たり前だが、やはりそういった幸運が来ない時にどう生きるのかを感じながら生きて行かねばならないだろう。