言論裁判所

 小雨、気温はプラスの8度。


 安倍内閣の支持率が低下したと報じていた。あれは一種の、マスコミ、特に新聞の力を見せつけるためのパフォーマンスに近い部分がある。連日、安倍政権たたきをした結果と言えなくもない。

 日本に正しい論争があるかというと無いというしかない。一方が大きな声でわめき、相手の言論を封じ込めようとし、それに対して反対側も、同様にその大きな声に自分たちの声がかき消せられないように抵抗する。

 お互いに相手の主張を聞き入れようとしないため、話し合いに成らない。それを見ている外野の人間にどちらの意見が正しいのか判定してもらわなければならないことになる。

 日本には、そういった第3者の目で議論を捌き、外野の意見を集積する場が無い。本来なら国会がそういった多様な意見を一つに集約させる場なのだろうが、その場は、政党という小さな集団ごとの思惑の場でしか無く、どちらが正しいという判断よりもどちらについた方が自分たちに有益かで判断される場に成り下がってしまっている。

 国会が正常な議論の場で無いのなら、議論をする場を作らなければならないだろう。そのためには、双方の意見を聞き入れるジャッジが居る場が必要である。その機能は、裁判所のようなものである。

 国の意思は、時代と共に変化する。その中で一つの意見としては纏まりにくい。多様な考えを持つ人間が集まって世論が形成されるからである。それを纏めるのは容易では無い。さらに言論は移ろいやすい。

 そこで、国会とは別に言論裁判所というのを作るのである。そこでは中立な議長が議論を進行させる。それに従わなければスポーツと同じで退場処分を受ける。その中で一つの議論に対して正しい正しくないをジャッジしていくわけである。

 どの意見が正しい、正しくないというのは、その正しさの尺度で変わる。更に利害関係も絡み複雑になるのが常である。だけれどもお互いの主張を聞かなければそれが正しい正しくないは何時まで経っても決めれれず、結局国会のように強行採決しか方法が無くなってしまう。そういう事を防ぐための公聴会のようなものである。

 公聴会の機能をきちんと整備し、ここできちんとした結論が出なければ国会に上がらないというような仕組みにすれば良い。今の公聴会が、官製のシナリオありきの会であり、何の効果が無いのが現状で、そこで公聴会でどちらの意見が正しいのかジャッジすることで権威を高めるのである。

 当然全国中継をし、その日の意見交換をリアルタイムで視聴者にジャッジさせどちらの意見が優勢か表示させながら進めて行くのである。そして意見の判断をするのは、無作為に選ばれた有権者という事に成る。裁判員裁判と同じである。

 少なくともそういった劇場型の演出が無ければ、有権者は興味を持たないし、そういった場が開かれていることをもっと知らなければいけないからである。まさしく劇場型の裁判である。

 今のように、お互いの主張が垂れ流されるだけでは言論では無い。お互いの意見を聞き、納得できる点は納得しながら議論を進めてこその言論である。それがもっと国民に知れ渡って良いだろう。



 ただ、今回の秘密保護法案は、色々な影があり、日本や同盟国の国益を重視した圧力があって成立したものだろう。それがこの先の日本にとって良い事だったのか悪い事だったのかは、この先を見なければわからない。そして今回、これを決めた政府の関係者全員がその責任を取ることは無いのは間違いないことである。

 更に、面白いことに、ウィキリークスがTPP交渉の舞台裏を記した文章が公表した。これもある意味秘密保護法案とのせめぎ合いなのだろうと思う。