晩節を汚す

 晴れ、気温はマイナス1度。朝日が低くて本当に眩しい。

 「晩節を汚す」という言葉がある。晩節は、晩年、老境という意味で、何時死が迎えに来ても良い年頃の事である。

 本来なら、死ぬ間際まで後ろ指を指されるような立場にいたくないと思って死ぬことを望む人が殆どだと思う。しかし、それとは反対に、この世から消えてしまうのならなんの恥ずかしさもないと思える程奔放に生きる人もいる。

 それは、死の美学に対する考え方の違いという事に成る。

 自分が幼い頃、理想としていた大人というのは、まさしく偉人伝に出てくるような大人であった。清廉潔白で身の程をわきまえ、公明正大な振る舞いをする大人だった。

 そういった大人が大人の大半を占めると思っていた。全くもってその頃の自分は幼稚だったのだろう。

 実際自分が大人になって思う事は、大人の大半は、そういった理想の大人とは違った人たちであると気付き始めた。その大人たちの中に潜むものは、如何に自分の利益を最大化するかということに腐心する餓鬼のような心を体に潜ませた生き物だった。

 大人としての評価は、その心に潜む餓鬼のような魂を、如何に閉じ込められるかで決まると言って良い。

 自分がこれまで相手してきた大人たちの全てがそういう生き物だった。そういう自分もその大人の一人であるという事を自覚している。

 いつもはその餓鬼のような飢えた感情を押し殺して生活していても、常に何かの切っ掛けでその心が顔を出す。そこには、自分の利益の計算で有り、不利益であったとしても将来得られるであろう利益への投資とのバランスを取りながら生きているのである。

 生き方が下手な大人と上手い大人の差は、僅かな利益でも直ぐに手を出し、将来得られるであろう最大の利益を失うか、目の前にある利益を失う事を怖れず、将来得られるであろう利益に投資できるか否かの差でもある。

 そこにある境界は、余りにも曖昧でその判断が正しかったか正しくなかったかは、時の流れが決めることで自分の思う通りにはいかない。

 何故なら自分が係る大人たちの全てがそういう色々な考えを持ちながら行動しているのであるから、その絡みが多ければ多いほど自分の判断による結果が変わって来るのは致し方ない事である。それが実際の大人の社会である。

 その中で生きるために、若者たちに伝えたいことは、目先の利益を追い求める人間は結局最後には損をするという事である。何故ならその先に広がる未来を手に入れることを拒否していることに他ならないからである。

 晩節を汚すことなく生きるには、心に潜む餓鬼を如何にコントロールするかに掛かっている。何時でも簡単に顔を出す欲望を捨てることが出来、更にその先にある本来の自分のあるべき姿に叶う機会に全力であたれるかが最大幸福を得るカギだと思う。

 まあそれでも、人生山あり谷ありある方が有意義に生きたと思えるかもしれないが。