善と悪の続き

 曇り時々雪、雪と言っても霰のような細かい氷の粒といった感じである。気温はマイナス1度。


 昨日は、善行と悪行ということを書いてみたが少し中途半端になってしまった。更に書いている内に色々な考えが浮かび始め本当に自分が思っていることを書いているのか判らなくなったりもした。

 こういった事を考え始めるのは、悟りを求める修行に近い。自分が開祖となり新しい宗教を始めようとは思っていないことはお断りしておく。

 しかし、色々な人がそういった悟りに近い経験をしながらもそれを形作ることなくこの世を去って行くし、更に一度悟りに近い体験をしてもそれが一瞬のことでまた煩悩の世界に戻って行くことは多いだろう。実を言うと自分もその悟りと煩悩の世界を行き来する平凡な人間であることを重々承知している。

 だからその得意げに語る世迷言のようなことを書き連ねることもその境界を彷徨うことの証である。しかし、この境界を突き抜けると周囲からは変人あるいは世捨て人と呼ばれる世界に入り、そこから解脱の道に入るのだろうが、正しく進むことが出来なければきっと周囲に迷惑を及ぼす人間に成ってしまうのだろう。

 昨日、善と悪の事を書いている内にある人間を思い浮かべた。20年前地下鉄サリン事件を引き起こした教祖と呼ばれる男だった。

 その宗教の内容は知らないけれど、彼らの仲間内ではあの事件は、自分たちの正しい世界を作るための聖戦の一つであったし、自分たちを取り囲む外界で生活する人間たちを自分たちの考える正しい世界に導く手段の一つであったらしい。

 我々外界に住む人間にとって悪行だったとしても、立ち位置が違えば悪行も善行になる一つの証明である。日本では、その世界観が共有されることは無かったが、世界ではまた違った動きがある。

 例えば、中東のイスラム国を名乗る一派であり、アフリカのボコハラムと呼ばれる集団である。既にその存在感は、只のならず者集団というわけでは無く、一つの勢力として存在している。その考えは正しくないと攻撃しながらもその勢力を根絶やしすることはできない状況である。


 そういう状態が続けば続くほど、やはりそれは新しい秩序を生み出してくる。その中で政府機能が立ち上がれば、それを国として認める国々が出てき始め、やがて国家という既成事実が作られる。そうなれば、いくらその思想が、今の世界の主流と異なっていたとしても簡単に滅ぼすことはできなくなる。

 イスラム国と名乗る集団も、あと数年このような状態が続けばやがて国として認められてくるだろう。彼らの思想が異端だとしても他の国が干渉することはできなくなる。

 日本では、そういった他のものを滅ぼすことで自分たちの教えを正しいものとする考えを持つ集団は、法律で規制されているが、実際のところ宗教の自由の名のもと存続を禁止するまでには至っていない。

 教祖を唯一の絶対者と信じる彼らの存在は、再び混乱を生み出す要素をはらみながらも存続を認められていると言える。

 そしてその中で共通するものは、自分たちは正しい教えの元存在する正しい集団だという事である。正しい教えを信じるからこそ救われる。そしてその教えは世界を正しい方向へと導く唯一の手段であるという事である。

 だから彼らは、多くの無関係な人を殺すことも正しい考えに導く正しい行いだと信じているし、自分たちの存在を認めない外部の人間は悪でしかないのである。

 もし、世界がそういった考えの人間に支配されたとしたら悪行は善行である。コップの中で考えるかコップの外で考えるか方法は異なるが、もし最初は小さなコップだったとしても、その大きさが徐々に大きくなり世界を占めるようなコップの大きさに成れば、コップの外からそれは悪だと叫んでいた人間が何時の間にか少数派に成り自分たちが悪になっているのかもしれないである。

 善行と悪行の視点は極めて曖昧であり、悪は善にもなるし善は悪にもなる。

 その悪と善との区別を社会的ルールである法律という名のもとで決められているだけで、法律で罰せられなければ悪では無い曖昧な存在として生活しているだけなのである。

 自分にとって本当に正しい世界を作ることは、その考えを受け入れない人間を排除していくしかない。結局受け入れない他者を力で排除する世界にしかならないのである。


 こうやって考えていくと、今自分が正しい考えで物事を考えているか漠然とした不安を持つようになる。そこに正しい(自分にとって)答えを導いてくれる指導者を求めることは人間としての性という事なのである。