イルカ問題

 小雨、気温は9度。夏へまっしぐらと思われた4月だったが5月に入り足踏み状態が続き、何時もの5月になってしまった。本当に季節は気まぐれである。


引用 中日新聞http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2015052102000122.html

世界動物園水族館協会(WAZA)から除名を迫られ、日本の水族館は、追い込み漁で捕ったイルカを入手しないことにした。しかし、理解を求める努力は続けるべきだ。埋められぬ溝はない。

中略

「友人」と呼ぶか「資源」と呼ぶか、また両方か。横たわる溝は広くて深い。だがこれは、どちらが正しい、どちらがいけないという問題ではないだろう。

中略

 日本の水族館には、人工繁殖の技術をよく磨き、広めてもらいたい。そして、WAZAや自然保護団体との対話を深め、溝を埋める努力を続けてほしい。背き合っているだけでは何も進まない。


 自分が文章の批判をするのは自分の見知らずと思うが、ダメな文章の見本のような社説である。

 最初の文章は、どう読んでも「追い込み漁で捕ったイルカ」を水族館で飼育できるように理解を求めなさいと取れる。しかし、最後の締めで、人工繁殖で育てなさいと書く。

 頭と足が繋がっていない文章を堂々と社説として載せる新聞社の質が露わである。

 もう一つ言わせてもらえば、文章の半ばに掛かれた「どちらが正しい、どちらがいけないという問題ではないだろう」と書かれたらあんたは結局どうしろと言いたいのか支離滅裂である。

 社説というのは少なくとも、一つの問題に対してこう考えるという会社の立場を鮮明にする宣言のようなものだと思う。この社説は、自分で考えてもどちらが正しいか判らないから日本の水族館の人、太地町の人が考えてねといっているようなものである。

 イルカを人の仲間と見るか、魚の仲間と見るかの考え方の違いを変えることはできないだろう。考え方の違いを無理に同じにしようとすると必ず争いが起きる。今回の件も平和的な争いである。

 もし、その考えを両者で歩み寄れる解決法が中日新聞にあるのならその方法を社説として書くべきである。それが無いままの文章は便所の落書きと同程度だと思う。

 今までの人類の歴史の中でそういった対話による解決ができないから争いが起き、結局武力衝突から戦争へ向かうことが何度も繰り返されている。

 人類の長い歴史の中で、それを人間が解決する方法を編み出せたかというと編み出せていない現状がある中で、外野はこちらに飛び火しないように火の粉を防ぐ用意をしながら見守るしかない。