不寛容社会

 大雨、気温は20度。


 社会は急速に不寛容社会になっている。やはりその原因はネット社会が急速に広まったせいであると思う。今はまだ世代間に情報共有システムにたいするムラがあるためテレビ、新聞もその役割を果たしているが、今後10年間で急速に情報共有はネットが主体になるだろう。

 過去のテレビや新聞は意図的に情報を出すときに時間、スポンサーなどの影響などからフィルターされすべてが明らかにされるようなことは無かったが、これだけネット社会が浸透してくるとそういった情報の公開をする姿勢にも変化が見られてきた感じがする。その一つは、テレビがネットの情報を後追いするようになってきたことである。

 今までは、ネットがテレビや新聞の情報を流していた。あくまでも情報発信の主体はマスコミ業界だったが、ネットに流れる情報を基に番組を作り記事を書き始めた。すでに立場は5分5分かネット上の発信の方が上回っている状況である。

 では、何が社会に問題化というと、過去の情報発信は上にも挙げたように誰かの利益のために制限が掛けられたり出ても何らかのフィルターが掛けられていたが、ネットを情報の発信源すると情報は発信者の発するまま流れてしまうようになる。そのため、何のバイアスも掛からず瞬間的に拡散し瞬間的に消えていくようになってしまった。いうなれば記憶すらされない情報が雨あられのように流れその中から興味の引く情報が掬い上げられて大きな情報をなるようになった。情報を受け取る側は、今までは受け身だったけれど、今度は自分で情報を探り当てる必要が出てきたのである。

 今回の大量殺人事件のように、ひとたび興味を引く事件が起きれば大量にそれに関する情報がネット上に溢れ拡散する。しかし、その興味の対象が薄れるかあるいは別の事件が起きれば今度はそちらの情報が大量にあふれて過去のものは忘れ去られていく。

 その洪水のような情報は、人権とか個人情報という枠組みから外れたものも混じるため受け取る側は過剰に反応することもある。更にその感情を自らも発信できるためある意味情報過多の状況が作られてしまうのである。そうなれば、批判的な数が多ければ多いほど非難の声は大きくなり、賞賛の声が大きければ大きいほど賞賛が大勢を占める。更に一度賞賛されても何らかの瑕疵があれば途端に非難の嵐になる。その起伏の大きさゆえに社会は、許すものと許されないものとの判断が瞬間瞬間でぶれる為、徐々に物事に対して不寛容になっていくのである。すべてを素直に受け入れることはそうそうなく、好意的に思われる行為でも意図的に悪感情をもたらす情報が入れば、それも許されなくなるという大波小波の世界になるのである。

 このままネット情報社会が進めば進むほど不寛容さが拡大していくのだろうと思う。それが嫌ならネット社会を規制するしかない。権力者の思う間がままの情報だけを流すように規制する中国のようなものである。中国がまだ社会的に安定しているのはネット情報が規制されているからに他ならない。

 ネットの不寛容性が進めば進むほど社会に不寛容性が溢れ、しまいには情報の自由な発信が規制されて当然と思うような世界が近付いてしまうのかもしれない。

 この先の社会がどのように発展していくか静かに見守っていきたい。