日本語の変化

 晴れ、気温は10度。

 秋晴れで少し寒い。まさしく秋たけなわというところだろう。

時事通信(https://www.jiji.com/jc/article?k=2017092101005&g=soc) 

「存続するか滅亡するかの重大な局面」を意味する慣用句として、「存亡の危機」を使う人が83.0%に上り、辞書などで本来の言い方とされる「存亡の機」を使う人は6.6%にとどまることが21日、文化庁の2016年度「国語に関する世論調査」で分かった。

 朝のニュースで報じていたのだけれど、文化庁の国語世論調査の結果の話である。その記事の中から誤用と言われるものを上げると、

  1. 「存亡の危機」→「存亡の機」
  2. 「足下をすくわれる」→「足をすくわれる」
  3. 「さわり」の意味が本来は「要点」だが「話の冒頭」として使用
  4. 「ぞっとしない」の意味が本来は「面白くない」だが「恐ろしくない」として使用

 こういった言葉の変化は、常に起こっており新語もその世代ごとに使われ始め定着するものである。昔の意味と今の意味が違ってくるのは当然である。

 言うなれば相手に通じれば良いという部分が多大にある。例えばその変化の大元はやはり放言だろう。日本の交通網が発達していない昔は、足で歩ける範囲が文化圏だった。その仲間内で言葉で表現できないような新事実は、新しい言葉で表現をする必要があった。その時に生み出されたその地域だけに通じる言葉が放言の成り立ちだと思うのである。

 そうして、各地で放言ができ、人々が行きかう距離が拡大し同じものが別の言葉で語られる不都合から徐々に言葉が統一され今の標準語という言葉が完成したのだろう。

 しかし、標準語という言葉のほかに代表的なものには大阪弁という関西言葉が文化として残り、北海道にも北海道弁という言葉がまだまだ生きながらえている。

 しかし、これだけ交通網が発達し、テレビなどの共通で見られる媒体が普及したため徐々に地域差というものが減っていくと思う。

 しかし、放言がひとりでにできたようにやはり新しい言葉が生まれ、更に元々あった言葉もその本来の意味を変化させて使われるのは全くもって必然である。

 正しい言葉遣いを全ての国民に強制的に使用させるものでもない。