箱根駅伝

 新しい年になり既に4日目、何か抱負があるかと言えば何もない無いに等しい。果たして今年はどんな年になるのだろう。今年もよろしくお願いいたします。

 東の空は、朝焼けで雲が赤く染まっている。気温はマイナス4度。

 2,3日と箱根駅伝が行われていたが、あの局がやると番組自体が24時間テレビになるという不思議な状態である。何かハプニングが起こらないと番組が続かない。逆にはっぷにんぐが起こることを期待して番組が作られていることが良くわかるのが、時折織り交ぜられるダイジェストなのだが、今回の箱根の2大ハプニングは、箱根の山登りで青学の選手が一時立ち止まったシーンと、繰り上げでタスキを渡せずに選手がスタートする場面で、一つの大学がギリギリ繋げずに終わるシーンであった。

 今回の箱根駅伝の放送は、テレビ局にとっては残念な大会に終わったのかもしれない。

 正月の多くの国民が休みで家にいる確率が高い時に、いかにして視聴率を稼ぐかというハッキリした課題があり、各局はその辺りを考えながら番組作りをする。ある局は、過去の人気ドラマの再放送、ある局は、お笑いという正月の風物詩的な番組を放送する。それぞれ必死に考えたのだろうが、何となくそこに制作疲れが垣間見える。正月は自分たちもゆっくりしたいよねという感じである。

 だからこそのリアルライブの日本テレビは、毎年同じ放送ながら力の入れ方は半端なかったということだろう。24時間テレビもそうだが、感動は使えば使うほどその価値を落とす。所謂感動が感動になる可能性が高くなるわけである。そのために、如何に感動的な場面を写すかが彼らの基本姿勢である。何故ならライブ中に感動的なシーンが必ず起きる保証はないからである。

 だから、きっと箱根の山登りの青学の選手が一瞬立ち止まった時、テレビを作る側の人間は、彼がうめき声をあげ倒れ、そこから懸命に歯を食いしばりながらタスキを渡すために一歩一歩足を前に進めるシーンを撮りたかったはずである。見ている側も、彼が命を懸けて前に進む姿を期待していた筈である。

 しかし、彼は一回立ち止まったけれど難無く往路のゴールを駆け抜けた。そこに感動のシーンは生まれはしなかった。あの駅伝は、そういったシーンが無ければ極めて退屈である。沿道の応援している人たちが何かするのではないかと期待するくらいなもので、後は、アナウンサーの退屈な感動秘話を聞くしかない放送である。

 その感動秘話も、一生懸命取材したのだろうが、繰り返しリフレインされては、ただただうるさいだけである。何の面白さも生まずチャンネルを変えられてしまう恐怖と戦いながらの放送となるのである。

 だから自分もほとんど時折チャンネルを変えてみるを繰り返していたわけである。

 テレビはいよいよもって節目を迎えている。その雰囲気は作り手側の既に自分たちの時代は終わったという感覚が番組作りから伝わってくるものである。

 それは、人の人生と同じで残りの人生の先が見えると先に進もうとする意欲が失われてしまうという感覚と同じである。テレビ局の番組作りも既に自分たちの残り少ない寿命の中で懸命に足掻く時は過ぎ、時間の流れに身を任せてしまおうという感じが透けて見えるようになってしまった。

 こうなれば後は坂道を転がり落ちるように落ちていくだろう。誰か一人がその流れに逆らおうと立ち上がっても誰もそれに追随しなければ大波に流されてしまうだろう。その感じがひしひしと伝わるわけである。それは、それを見ているものも感じ取る。

 もし、来年同じ番組を放送するのならアナウンサーの話は副音声に回し、主音声は沿道の応援の声を拾って流すという番組にすべきだと思う。ありのままを全てそのまま放送するのである。所謂定点カメラの映像を流し続けるというものである。