表現の自由を守るために

 晴れ、気温は14度.すがすがしい秋晴れである.

 

 

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夏に起きた騒動が漸く動き出した感がある.

 

 この問題、事前に展示物の大々的な広報を控え、表現の不自由と題して問題作品とされるものを集めて展示するという方法であった.

 主催者たる責任者は、騒動になるとは見越していたが、一度展示してしまえばそう行った非難は受け流せると考えていた節もある.

 しかし、日韓問題に揺れている時期で、更に慰安婦像と言われる像が展示され、更に昭和天皇の写真が燃やされるという情報が巷に流されると騒ぎに火が付いた.

 主催者側は、予定通りの動きだったのだろうが、その火種は瞬く間に延焼し実行する側の職員や会場事態に被害を及ぼすような脅迫電話、手紙などを受け取るようになり、慌ててその展示を取りやめることになった.

 表現の自由が日本で認められていることを前面に押し出し、実際は今回のような色々な圧力があり表現が制限されていることを公に知らしめるという目的が隠されていたはずであるが、その圧力に簡単に屈してしまった格好になった.

 

 こういった圧力に対する事前の用意がなく、圧力に屈し身を引く当たり主催者側の思惑通りにならなかったのは、責任者の責任と言わざる負えない.

 圧力に屈せず展示を続けることが表現の自由の保障という話につながるわけで、そういった覚悟無くしてこういった行動を取ることが表現の自由を阻害してしまうことになる.

 

 今回の圧力の理由の一つに、「表現の自由」は、それを不快に思う人が多数であれば公に展示することに制限が掛るのは常識である.その表現が不快というのは、猥褻な図画のような公序良俗に反するものが例になる.

 今回のように多くの批判を招く可能性のものを展示する場合、やはり閲覧する人に対して制限を加える必要があっただろう.そういった制限がある環境で展示することで表現の不自由を表現できたはずである.

 日本人には、そういった集団の眼というものを大切にして表現を自粛することが一般的に行われている.それは消極的な忖度であり、日本人以外にはわかりずらいものかもしれない.だから、日本では昔から猥褻図画などはひっそりと閲覧されていた歴史がある.

 今回の作品を猥褻図画と同一することは、失礼な話であるのは承知しており、あくまでも日本の公序良俗に倣って表現しただけである.

 

 今回の件、混乱が起きることは最初から想像されており、混乱が予想通りであれば(今回の場合河村名古屋市長の抗議くらい)、政治的圧力があったと逆手にとって表現の自由は政治的な思想に影響されないと主張しただろう.しかし、それではなくテロ行為を行うという脅迫に屈したのは、そういったものには表現の自由は簡単に屈するという悪しき前例を作っただけである.これだけでも実行委員の責任は重いと思う.

 

 また、表現の自由を認めろと主張する人たちの中に、それを不快とする意見を否定する向きもある.表現の自由と並んで存在する言論の自由を否定する行為にもつながる.

 表現の自由言論の自由、どちらかが制限されるならどちらの自由も維持することは困難になる.その辺りは、慎重な発言をすべきだと思う.