個の時代

最近の事件を考えるに、つくづく思うのは、以前と比べ人それぞれが社会の中の一員と言う意識から自分を中心とする世界観を持つ「個」の論理を持つ人が増えたのでは無いだろうか。

 以前は、会社などの職場の一員として一つの歯車になりその一体感が人生の生きる喜びであったように思う。
 自分の勤める会社の業績が上がることが喜びであり仕事の目標であった。学校でも、マスゲームのような周りと同じ動作をすることが義務付けられていたように思う。
 
 それが変わったのは、教育のせいとは言わない。社会全体が個を強調するようになったのは何時の頃だろうか。戦争と言う全体主義の反省から、欧米に見られる個人の自由と言う風潮があふれた60年代からその兆しはあったのだろう。
 その学校教育や社会も、個性を伸ばすと言う意味合いから、個人の能力の尊重、言い換えれば他人と違った面を個性と呼びそれを誉めそやす雰囲気が生まれ育ってきた。

 個の尊重は何時しか、個人を世界の中心とする考えに代わってきたとも言える。個人の意思を尊重するのは大事だが、それが周りを見ない人間を育ててきたのかもしれない。更にそれに拍車をかけたのが、一つは人工中絶、人工授精などの方法(これは一つの例えである)が社会一般に普通のことと受け入れ始めたことでは無いだろうか。
 人の命は、自分が受け入れさえすれば、この世に作り出すことも出来るし消すことも出来る。更にそれを含めて、自分が産んだり育ててきた子供は、自分の意思で自由に出来ると勘違いをしてしまった。
 
 更にゲームの世界のように、自分の世界も自由にリセットすることが出来るかのように考え始めてしまったのではないだろうか。ゲーム機のコンセントを抜くように、周りの何かを破壊或いは消滅させることによって自分の生活がリセットできると考えた。それが、家族であり、友人であり、見知らぬ他人であっても。
 自分の頭の中に広がる自分中心の世界を再びリセットするために何でも良かったのである。

 さて「個」の時代が始まってしまった今、これからどのような結末を迎えるのであろうか。それともやがてその寂しさに怯え集団に帰って行くことを願うようになるのだろうか。