本当は、ゆとり教育が必要

最近、義務教育のゆとり教育が非難され、徐々にゆり戻しが始まっている。

 何が、ゆとり教育を別なものに変えてしまったのだろうか。

 そもそも、ゆとり教育の発想は、知識詰め込み型の教育から、自分でものを考え学習する能力を高めるためのものであったはず。(自分はそう理解している。)

 しかし、実際の教育現場では、土曜日が基本的に休みになり、授業時間が減らされ、教える内容も学習指導要領の中で簡素化された。
 学習指導内容は、簡素化されたが、その内容を更に深く自由に勉強し考える事が需要だったはずである。しかし、その上からの指導が末端に行くにつれ変化したかもしれないが、その範囲内を教えればよい、或いは教える必要が無いに変ってしまった。
 それは、悪い意味での誤変換である。

 確かに、教育方針は、年度を境に激変し、教育現場は混乱し、従来の教育が、教科書の範囲内を教える事が全てであったから、急に、教科書以外の部分をどのように教えていくかという環境には無かった。
 しかし、ここでまた急激な方向転換を行うと、今ゆとり教育を受けている世代が混乱する。ここは、しっかりと今までのゆとり教育の土台をしっかりと維持し、教師の指導方法を変えていくしかない。
 それは、教科書を超えて、暗記する技術ではなく、物事を考え考察する能力を高めていく方法を突き詰めるべきだと思う。ただし、暗記を全否定するわけではない。そう言った知識を土台としたものを考える力の養成を行う必要があるのだ。