原爆の記憶

 今日も朝は雲が広がっている。朝日を拝む事は無かった。この後、晴れると言う事なので相当暑くなるだろう。外気も少し湿度の高さを感じさせる。

 今日8月6日は広島の原爆の日である。既にその日から64年過ぎ、その当時小学生の頃だった方が知るのみと成った感がある。今の若い世代にとってもう既にこの事実は過去の出来事に成ってhしまったと思う。
 そういう自分も、戦争を経験したわけでなく、実際に原爆を見たわけでもない。北海道に暮らしていると実際被爆した人の話を聞くわけでもなく、余りにも遠い国のような話でも有った。

 そして今と言う時代がある。広島、長崎で実際に核爆弾が使われ、その後どの戦争でも実際には使われることは無かった。本当に唯一の被爆国だった。しかし、その経験も時代の流れと共に薄れ始めた事は仕方がないことだと思う。
 もしその原爆の悲惨さを世界に伝える事がこの先できなくなるとしたら、いつかまた被爆国が生れる事だろう。
 そしてまた、あの頃から核爆弾を保有する国は徐々に増え、更に新たに核爆弾を持とうとする国が増えた今、だれがその使用を止めることができるだろうか?銃を持つ人が増えればそれを使う人が必ずでてくるのと同じ事である。使える武器が身近にあれば使うことを厭う事はないのと同じ事である。この先いつか核爆弾が使われる時が来るだろう。

 その経験をした唯一の被爆国である日本もまた、核武装すべきであるという意見がある。自分の国は自分で守る。相手が核爆弾で脅しを掛けるなら自分も核爆弾で攻撃できるようにしよう。
 確かにそれは簡単な思考である。「目には目を」と同じで人を納得させやすいフレーズで、素人受けする答えである。
 それに対して核廃絶を訴える人も居る。これもどのようにして核廃絶に持っていくのかプロセスが不明なため、共感を得るのが難しいと思われる。
 核廃絶を行うためにどういう道筋があるのか、只廃棄しろでは、東の外れに住む人間がわめいているとしか思われないだろう。
 
 核廃絶の方法は、やはり政治だろう。多くの国で核を持たないと宣言する政党が力を持てば国として核を持つことは無い。そういった核を持たないとする政党がスクラムを組んで事に当たるしかない。

 原爆と共に戦争が終わり、その戦争に疲れた世代の多くはこの世にいない今、また大きな戦争が起こりうる。それに対して日本はどうするのか、今の大人たちはどう行動するのか考える日であって欲しい。