かなりあ

 今日は曇、雨上がりの朝である。寒さが身に染みる。吐く息は、真冬のように口から吐き出された途端に白くなる。

 舛添さんが離党したと言うニュースが今日の目玉らしい。この人が国民的人気があるとはとても思えないのだが、自分の認識が他の人とちがうということだろう。

 与謝野さんが離党したときに付いていかず、後で結局離党すると言うのは、この人特有の風見鶏的動きにしか見えない。将来、民主党に入党しそうな気がするのは自分だけだろうか。

 そして、TVニュースで繰り返し流されたのが、鳩山さんのダメさを強調する映像。何時の日から日本は一国の総理大臣を卑下する報道を始めたのだろうか。

 あの故小渕元総理の株が上がれのパフォーマンスぐらいか。

 高みに登った人を引き釣り降ろすことで快感を覚えることはある。歴史はその繰り返しだったかもしれないが、情報量が昔と今とでは格段に違う。ネットが発達して隠しておきたい情報もいつの間にか漏れてしまうような世の中に成ってしまった。

 そして、今まで神秘のベールに包まれていた皇室もいつの間にか神秘ではなくなり、国会議員も芸人も同等の扱いに成ってしまったのだ。

 それを国民が望み今の日本社会ができたのだから、国民の意志なのだろう。或いは一部のグループがその方向に国民を誘導したのだ。

 「面白くなければTVじゃない」の時から、全てを笑いのめすのが正しいと考えてマスコミは動き始めた。確かにTVは娯楽と考えれば正しいキャッチである。しかし、全てを笑いのめすことが正しい方法では無かったのだろう。

 

 今思えばそういうことになる。全てを笑いのめすことで相手を引きずり下ろし、対等の立場にしようとした、権威を権威たらしめずそれを破壊することで混沌を創りだそうとした。それは成功しただろう。日本国民の大多数が、全ての事柄をお笑いのノリで見ることを教育されてきて、TVを見るように成ったからである。

 

 しかし、やはり反動が来る。TV番組自体の軽薄化である作りも出ている人も軽く薄っぺらくなり番組から発する力が失せてきた。

 そしていつの間にかTVの前から人が消え始めた。それが今の状況だろう。同じものを嫌というほど食べさせられれば、飽きるのは当然である。権威という権威を引きずり降ろしたのだから、もうその材料が底をついてしまた。

 権威を批判することで、エネルギーを生んでいたのに、自分たちでその権威を失ったのだから、燃料が無くなってしまった。それが今なのだろう。

 歌を忘れたカナリアは、捨てられてしまう。何時か歌を思い出すことができればまた過去の栄光を蘇らせることができるかもしれない。