無責任社会

 曇り、風が少し吹いている。気温は零下だがマイナス2,3度だろうか。2月も残すところわずかになってしまった。


 引用 毎日新聞(http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20100224AT2N2302R24022010.html

米トヨタ公聴会、米トヨタ販売社長「心からおわび」
 【ニューヨーク=西邨紘子】トヨタ自動車の米国での大量リコール(回収・無償修理)を巡る米下院エネルギー・商業委員会の公聴会に23日、米トヨタ自動車販売のジム・レンツ社長が出席し「顧客の皆様に不安や心配を起こしたことを心からおわびする」と謝罪した。急加速についての苦情の7割が今も原因不明であることについて「今後も原因解明への努力を続ける」話した。

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この問題が、トヨタのあざとい欠陥隠しだとしたら厳しく断罪されるべきである。
 しかし、販売当時予見出来ない欠陥だったとしたら、或いは欠陥がなかったとしたらと思うと、魔女裁判の様相を見せることになる。

 今回の結末は、決してトヨタにとって幸せなものにはならないことが結論づけられているはずである。

 日本が確実に退潮をきたしているのを見せつけられることは辛いものである。今のオリンピックの中継にしろ、中途半端に持ち上げ更に突き落とす様を見ていると人間の卑しさを思い知らされる。

 人を非難するのは簡単である。更に自分たちが泥をかぶらない位置にいれば尚更、非難の言葉もなめらかに発せられる。
 今の状況は、まさしくその状態である。自分の正体を突き止められる恐れが少ないほどその発言は過激になる。

 しかし、実は自分たちのその足元が安全な境界を超えようとしていることを気づかないのである。
 その一つが、日本の新聞や雑誌、TVだろう。目先の売上を争う余り、自分たちの食い扶持の元を疲弊させていることに気づかない。
 非難することに酔い、自分たちが正義の側にいると勘違いする。しかし、正義は時代の物差しによって評価は変わる。
 何年か後にその評価が替り、非難が誤りだったとしても、マスコミは反省することはない。ましてや何らかの責任をとったと言うことを聞いたことが無い。

 そのことは、政府にも言える。その時その時の色々な影響力のある政策が、未来に非難されようとも、過去にさかのぼって責任をとらされることはない。
 決定した人は、既に過去の人で、決定を実行する人は、既に責任を取る必要が無くなっている。そこに責任は生まれない。

 そうして既に日本は、無責任社会になってきていると言える。それは世界の主要国にも言えることだろう。今の自分達の利益を得るために未来の世界がどのように変化するか知ることはない。
 
 人は、何時までも生きられる神のような存在ではない。何時か寿命でこの世から消え去る存在である。死んでまで責任をとらされることはない。
 そして社会が老化すればするほど、人は責任を取る事をしなくなる。何故なら既に何十年のスパンで物事を考える必要のある人がトップに居ないからである。
 後数年すれば、隠居して悠々自適に暮らせるお金を貯めた人間が、今の子どものために何を残すべきか常に考えることが出来るだろうか、それを期待することは、飛んでるハエを箸で捕まえるような期待度だろう。

 無責任な社会は、何時か滅びるのは定めとも言える。それは老木が根から腐るように徐々に足元が衰え何時か倒れて行くものである。
 何時も道端にあると思っていた大木が夜中の強風で倒れてしまう様にあっけない。