雨上がりの曇り、気温も少し低いが、既にコートの季節ではない。
自分は不老不死の能力を持ったスーパーな人間ではないので、過去と比較は現実比較できないのだが、昔も今のように大人と呼ばれる人間は存在しなかったのだろうか?
自分の小さい頃は、大人は大人であって子供から見れば充分大人と呼べる人たちだったように記憶している。ただ子供の頃は、大人と呼べる身近な人は、親であり教師であり近所のおじさんおばさん達であったから、すべての大人を見ていたわけではない。
そして自分が大人になって思うことは、人間社会に大人と呼ばれるある意味達観した人間は存在しないのではないかということである。
自分が成人式を迎え、法律上大人と呼ばれる仲間入りした時点ではまだ大人の世界の事は身近ではなかった。そのため大人はこうあるべきだし、自然と人間は成長し大人になっているものだと思っていた。
そして年齢を重ねるうち、大人と呼ばれるある意味達観した人間は存在しないということに気付いた。人間は、年齢を重ね年老いても子供と同じだということを。
年を重ねることで、容姿は変わり、あたかも全てを悟ったような顔を見せるが、実際は、精神構造は子供のころから変化を遂げてはおらずただ知恵がついただけであるということを。
経験は、ある意味人間を大人という形容詞を纏う人間像を作り上げる。ただそれだけである。すべてが聖人君子になり次の世代のために自分たちを犠牲にする人間になるわけがない。
大人という着ぐるみを着た餓鬼である。自分が生きて行くために、自己犠牲を払おうという考えを持つ者は少なく、自分がどのようにして立ち回り生きて行くのか汲々とし、中にはその立ち回りさえ忘れ、単なる幼児と同じ駄々をこねることで生き延びようとする。
今回の大震災は、そういう人間の姿を浮かび上がらせた。本当ならこの時期、本当に自己犠牲を払い、将来の国のために尽くせる人間を見極めなければならない。危機こそ人間の能力を見極める最大のチャンスである。
この国の将来を任せられる人間を探さなければならない。その正体を見極める時間は徐々に少なくなり、何時しかまた以前と同じように正体を隠した子供が跋扈する時期がやって来る。