新聞記事

晴れ、徐々に気温が高くなっていくのを実感する。朝起きた時から比べると日が昇り始めるとじわじわ空気が熱を帯びるのを感じる。漸く春が訪れた。


引用 スポーツニッポンhttp://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/05/11/kiji/K20110511000794050.html

川内村民“憤り”の一時帰宅「責任押しつける気か」

 福島第1原発から半径20キロ圏内の「警戒区域」にある福島県川内村の住民が10日、一時帰宅した。警戒区域に指定された9市町村では初めてで、東日本大震災から11日で2カ月となるのを前に実現。ただ、滞在時間はわずか2時間で、持ち出し品は縦横約70センチのポリ袋1枚に入る分量のみ。国からは「自己責任」の確認を求められ、村民が「責任を押しつける気か」と憤る場面もあった。

きっと、訪れた住民のすべてがこの記事の様に感情をあらわにすることは無かったのだろうと思う。全ての住民がみんなこんな感じなら暴動が起きることだろう。

この記事の書き方には、読む者の心を乱そうとする作為を感じる。如何に読者に憤りを感じさせるかを目的にしている。こんな時こそ、冷静な記事が必要である。

ざっと見た感じ、各社如何に読者に、悲惨な状況を植え付けるかを競うために、扇情的なお涙頂戴の記事を如何に書くか取材に努力した苦心の跡がうかがえる。如何にもワイドショー的な様式に新聞もなってきたということだろう。それが、読者層に受け入れられると考える新聞社の上層部の頭脳も劣化したということである。

新聞に読者が望むものは、ワイドショー的な記事ではない。まさしく事実を有りのまま感情を挟むことのない情報である。ワイドショー的な話を書くために、知らされるべき情報が没になってはならない。

だから、新聞には余すことなく真実の情報、日本で一日起こった事件事故の情報を載せれるだけ載せて尚且つ紙面に余裕ができればそういった記事を載せるようにしなければ、新聞と言えるだろうか。そういった記事は、特集あるいは週刊誌に任せるべきだろう。

いつから新聞の記事が週刊誌の見出しのようなものを多く載せるようになってしまったのだろうか?きっとそれは、経費節減の居り各新聞社の地方局がリストラされたあたりからだろう。

不通なら集まるニュースと呼ばれる新鮮な記事を生み出すことをやめ、本社の机の上で、寄せ集めた記事の中から紙面を生めるため、取材した情報をノンフィクション小説のように仕立て記事にしていく作業を行うようになったのではないだろうか。

そこにある記事は、真実かもしれないがいつでも虚構が存在する記事を乱造するようになってしまったのではないだろうか。原点に戻らなければ、新聞は週刊誌と同じような末路をたどることになるだろう。