人が人を裁くこと

 曇り、相変わらず肌寒い、気温は7,8度くらいだろうか。

 
引用 朝日新聞(http://www.asahi.com/national/update/0524/TKY201105240727.html

「客観的証拠存在しない」 布川事件、自白の信用性否定
 茨城県利根町で1967年8月に起きた「布川(ふかわ)事件」の再審で、強盗殺人罪で無期懲役判決が確定した元被告の2人を無罪とした24日の水戸地裁土浦支部の判決は、2人の捜査段階の自白の信用性を退けた。神田大助裁判長は「2人と犯行を結びつける客観的証拠が存在しない」と結論づけた。

 まず最初の感想は、人が人を裁くことの難しさである。

 この事件に物証がなく、目撃証言と自白だけが証拠だった。今も未解決事件が多数あるが、その原因が、物証がなく、これといった怨恨関係が無いものの犯罪事件は、往々にして未解決事件になる。
 
 その流れは、今も昔も大きなところでは変わらない。その中で、一つの目撃証言から犯罪が構成され、逮捕、自白に至った過程は、警察、検察の犯罪を解決しなければならないという義務感から生まれた冤罪と言える。

 この先、永遠にこの様なことが繰り返されるなら、裁判で判決が下った中の何パーセントに冤罪が必ず含まれることになる。

 法律では、「疑わしきは罰せず」という言葉がある。本来なら疑いだけでは法の裁きに掛けたとしても無罪となるはずである。しかし、現実では、裁判で争われた多くの犯罪が疑いだったとしても中々無罪にはならないというのがここ数年の冤罪事件で明らかに成った。

 やはり疑わしくても罰することはできないというのが原理原則なのだろう。それが人が人を裁く上の前提になっていなければ成らない。
 本来罰せられるべき人が罰せられないという状況が生まれてくることを承知の上で国民は理解するしかない。