安保法案の事

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引用 東京新聞http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2015091790070446.html

 他国を武力で守る集団的自衛権の行使容認を柱とする安全保障関連法案をめぐり、与党は十六日夜、参院特別委員会での採決に向け締めくくり質疑を行おうとしたが、野党議員が反発して開会を阻み、緊迫したまま与野党の協議が十七日未明まで続いた。これに先立ち横浜市で開かれた特別委の地方公聴会では、公述人から採決に抗議する意見が出た。だが与党は公聴会の開催前の段階で、夜の質疑で審議を打ち切る方針を確認。特別委で質疑終了後に採決し、十七日の参院本会議で成立を強行する構えだ。


 冷静な議論ができない状況で物事が決まることは余り良い事では無い。与党と野党、お互いに自分たちの考えの違う所で歩み寄らないで議論しようとしても時間の無駄である。

 こういった結論を求める者は、意見の異なる部分を両者がある程度満足できる状況に出来なければこういった混乱を招くのは当たり前の事である。

 その根本的な問題は、与党は数の力で押し切ろうとする余り弱者(ここでは野党)の意見を聞かないこと。一方野党は、与党との意見の違いをことさら大きく取り上げ議論を歪曲させようと努めること。

 

 こうなってしまえば、何が問題で、修正すべきところは何処なのか国民の目の前にさらけ出すことが出来ず、賛成か反対かの2者択一を迫るだけになってしまっている。

 国会での議論は無駄な時間を過ごしているとしか言えない。そういう意味で税金の無駄遣いでしかない。


 もう一つ悪いのは、各新聞社の姿勢である。戦後70年、日本国憲法を掲げて戦争が起きなかったことを根拠にそれを守り抜こうとしている。

 

 今回、この法案に反対している人たちの中にも多くの考えがあるだろう。その一つは、自衛隊の存在を容認するかしないかである。

 もしかすれば、今までの平和の中で自衛隊の存在も、アメリカとの安全保障条約を元にしたアメリカ軍の駐屯などが無くとも戦争は起きなかったかったかもしれない。もしかすれば本当にそういったものが無くとも今後戦争に巻き込まれることは無いのかもしれない。

 それが幻想であるのか事実であるのかは、この先の未来を予言する能力を持たなければ今の時点で知ることはできない。もし仮にという議論は確かに不毛である。誰もそれが正しいか正しくないか判らないことである。

 しかし、現実問題として日本の脅威になってきているのは、やはり中国、朝鮮半島情勢を抜きにしては語れない。戦後間もなくの中国と北朝鮮、韓国と今の3国は国力と武力は遥かに異なるからである。

 

 中国は、国が富むと同時に国の周囲への覇権の意欲を隠そうとしなくなったし、北朝鮮は、何時自分たちが攻め込まれるかもしれない或いは攻め込もうとする考えから武力を増強し、韓国もそれに対抗するように軍備を増強する。その3国は、軍備を増強する余り普段の有事で無い時にその武力を他に使おうとしてしまう。

 だから今までの70年が日本にとって平和だったからと言って、決して今後の70年も同じように平和でいられるかと言うと決してそれは保証できない。それが現実である。

 その点でいえば、日本の新聞社は、そういった脅威に対しても今までと同じように生きられるという何の保証が無いにも関わらず議論しようとしているようにしか思えない。

 この先70年も同様に平和を求めるのなら、中国、北朝鮮、韓国に対して武力の削減を求めるべきだろう。そういった事に対しては自分の目から見れば及び腰に見えるし、いくら記事にしたとして何の効果もないと思う故か、まず自分たちが丸腰に成ろうとしている。

 相手が武器を持ち何時攻撃されるかもわからない状況で、自分が丸腰に成った時に果たして相手も丸腰に成ってくれるかと言えば、それはあり得ないことだろう。いうなれば戦争放棄は、日本人の自己満足に過ぎない。

 昨日も書いたが、自分が丸腰に成るには相手も武器を捨ててくれることが前提である。相手が武器を捨てるような交渉がまず必要である。それが無しで潔く武器を捨てることは相手にとって全面降伏をしているように見えるだけだろう。

 日本の周囲の国が武力増強すればするほど脅威は高まるし、その圧力を受け、日本がどういった対応を取るのかという話になれば、間違いなく日本もそれに対する対応を仮想であっても備えることは当然で、そういった有事の対応を国がどのように対応するのかという議論をしつくすべきであると思う。

 結局有事に成れば、最前線にいる自衛隊の指揮官に超法規的措置という意味の分からない理論で行動させるのだけは避けるべきだろう。