フェィクニュース

 曇り、気温は18度。少し肌寒い。

 フェイクニュースについて徐々に世間に認められた感がある。その火付け役は何といってもトランプ大統領なのだが、その争いは今も続いているため下火になることは無い。

 

 もしフェイクニュースという言葉が流行語大賞に選出されなければ、マスコミがその言葉を忌避しているということになるのだろう。

 ニュースというのは本当の真実を伝えることは無い。例えば、「何年何月何時何分に交通事故が起きた。」これは事実を伝えているだろう、ここまではニュースと言える。しかし、ここからである。「事故の原因は、信号の見落としと思われる。」と続くと事実は曖昧になる。何故なら事故を起こした現場で信号無視をしたと見ていた人の証言が必要だからである。

 

 このように、事実だけを述べただけではニュース記事にはならないため、そうなった原因を推測して報道することになる。その時に入るのは記事を書く記者の主観である。

 信号無視の原因が居眠りであったり、わき見運転、スマホを弄っていたなどの原因があるが、事故を起こした本人が本当のことを言わなければ事故原因は推測の域を出ない。そこが大きな問題なのである。そこを抜かして推測が入ってしまえばそれはニュースではなくフェィクニュースの領域に近付くことになる。

 アメリカのトランプ大統領がCNNをフェイクニュースであると攻撃し、それに対してCNNも反論する。もし、フェイクニュースを垂れ流していると認識されれば死活問題だからである。

 しかし、CNNが簡単に反論できないのは、ニュースを脚色していることを知っているからである。何故なら彼らは視聴率と戦っている。多くの人を自分達の報道に目を向けさせるために、興味を引くような事件、事故を取り上げることを優先するからである。更に興味を引く事件の関連報道を続けることで更に視聴率が増える。その関連を報道すると真実と推測という入り混じったものが出来上がるわけである。

 事実だけを報じればそれはニュースである。しかし、それを取材する人間、報道する人間の住感が入ればそこに必ず嘘が含まれるようになるからである。

 赤いリンゴもフィルターを通せば青いリンゴに見えてくるように。リンゴの存在は事実だが、その見え方は何とでもできるようになっている。

 リンゴが本当に甘いリンゴであるにもかかわらず、それが毒リンゴのように印象操作を作り上げられるということである。それを考えるなら日本のテレビ局の番組も全くもってフェィクニュースに近い存在である。番組を面白くするためにドキュメンタリーを装った台本のある番組を放送する。

 作って報じる側は、視聴者がやらせが入っていることを当然のこととして理解していると認識していると考えて放送しているかもしれないが、全ての人が筋書きが有るものだとは認識していない。あたかもそれが真実であるかのように洗脳されてしまうのである。

 ニュースを事実として報道することは、詳細に語ろうとすればするほど事実に脚色が加わる。それが脚色だと判れば良いが、今の報道では、どこまでが事実でどこまでが脚色であるのをワザとに判りにくくしている。

 我々が実際に見て聞いて、それが事実と違うと思っても、それに対する批判や意見が報道側に伝わりにくかったのも事実で、それが報道側を勘違いさせたのかもしれない。

 しかし、インターネットが普及した今、可笑しいと思う人がネット上に意見を流すことで賛同者が多数いればやはり批判する。その声が大きくなればなるほど報道に対する厳しい評価が下されるのである。

 今までの興味を引けば良い、一度流してしまえば流しっぱなし、誤報しても謝らないで済ますといったことが徐々に通じない時代になったことをマスコミも知るべきだと思う。本当にその転換点がとっくの間に過ぎているのだと思う。