代理母

今日は、朝の5時頃から雨が降り始めた。降り始めは本当にパラついていた程度だったが、7時過ぎには本降りになってきた。前線の影響を受けた結果だろう。秋の長雨と言うが、今年は夏に入ってからも雨が続いてきた。本当に気まぐれとしか言いようが無い。今後も予報の当たりにくい天気が続きそうである。今日の朝のニュースで、61歳の母親のお腹を借りた代理母による出産の話題が出ていた。この出来事、ニュースでは数年前から取り上げられ、技術としては容易なものになってしまっているのだろう。そして、それを許してしまう社会になっているのだと思う。しかし、それは余りにも当事者に接近してしまった考えである。個人が幸せを望めば周りからの批判を受け入れないようなものである。更に自分に害が及ばない範囲では無関心であるということとイコールでもある。また、もう少し付け足せば、このような事実は、ニュースなどにせずひっそりと行われているべきものなのかもしれない。こうやって取り上げることで、議論をせざる終えない環境を作り上げ、自分のようなものでもそれに関して一言物申すということになってしまうからである。今回の行為が社会的に及ぼす影響であるが、あたかも出産が工場で生産するのと同じような人工的な技術であるかのような錯覚を人々に覚えさせるのではないか。生産と製造中止が何かの要素で決まってしまうということである。それは、中絶の技術と表裏一体である。まだ、体内にあるうちは、人間とは言えないから、堕胎しても問題ないのである。それは、生命を宿した後、生れ落ちるまでは、流産しない限り出産には人の手が及ばないはずでもあったものが、いつの間にか人の手で生れ落ちる命を停止させることが可能だというに変わった。そして、多くの生れるはずであった命がこの世に生れることができず、普通なら生れるはずのない、年老いた母親の体から生命が誕生する。これほど生命の輪廻から言えば、それは違うのではないかと考えさせられる事柄である。昔、わが国のお偉い人が、「人の命は地球より重い」と言われたことがあった。自国民を助けるために、ハイジャック犯の要求を受け入れた。そう言わしめた人の命の重さは、果たしてこの世の中の全ての人の命に当てはまることなのだろうか?それともあの場限りの妄言だったのだろうか? 病気になった人の命を救うのは難しい。今でも治らずに多くの人が命を失っていく。それに比べ生れることへの関与は、余りにも簡単に行われすぎているのでは無いだろうか。これが続けば、SFの世界のように、人工的に生命を誕生させる装置につながって行きそうである。はたしてそれが人類にとって幸せな社会を生み出すことができるのかという問いかけにもなるだろう。