日本人的なもの

 雨が降っている。何時から降り出したか判らないが、それ程水たまりの面積が大きくないので今の雨脚からすると2,3時間前からだろう。気温は、低いが霙に変わる程ではない。

 今日の話題は、何と言っても民主党の支持率低下だろう。一通りの失敗は見逃しても二順目以降も失敗ばかりでは、それを許す度量は国民は持ち合わせていないということだろう。

 民主党の中にある組織的な一枚板が無いことがそもそもの原因だろう。例えば共産党のような組織決定したら構成員はそれに逆らうことなく粛々と行動に移す組織力、失敗すれば総括される危機意識。公明党なら、宗教的信条一致路線で、それを中心に行動すれば宗派的に間違いを起こさないと構成員がよりどころにすることが出来る強さである。
 しかし、この2つの政党に国を任せるときは、本当に相当日本が危ういときだろう。

 だからといって今の自民党は、民主党と同じで組織的に何の強さも感じさせない。同じ穴のムジナである。ということは、日本に頼るべき政党は存在しないということになる。外国から見ればこれ程くみし易い国がないと映るだろう。
 
 今までは、アメリカの陰に隠れ、その指示待ちで行動を起こしていれば間違いなかった。しかし、頼りとする国アメリカも今は、自分のところの火消しに精一杯で、日本の事に構う余裕を失っている。
 今が日本にとって真の独立国家になるチャンスなのだが、如何せんその指導する立場にいる人間が、揃いも揃って「戦後育ち」のぬるま湯に浸りきった人間ばかりという体たらくである。

 更にそれに続く世代も、余りにも優等生とお坊ちゃんを育ててきた。規律正しく生活することこそ人生と割り切っている。それを外れたアウトローの中に素晴らしい人間が育っているかと言えば、何のことは無い、自分の利益をむさぼることばかりの人間か、社会に出ることを怖れる引きこもりでしかない。

 かといって自分が何かを変えてやろうとする勇気を持ち合わせているかと言えば、それもなく上司の顔色を伺うチキン野郎の一人であるのは間違いない。

 今日の話題でもう一つの出来事はこれである。
引用 東京新聞http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2010110290070839.html

裁判員 死刑回避し無期 耳かき店員ら殺害
2010年11月2日 07時10分

 東京都港区で二〇〇九年八月、耳かき店従業員江尻美保さん=当時(21)=と祖母の鈴木芳江さん=同(78)=を殺害したとして殺人罪などに問われ、裁判員裁判で初めて死刑を求刑された元会社員林貢二被告(42)の判決公判が一日開かれ、東京地裁(若園敦雄裁判長)は無期懲役を言い渡した。

 若園裁判長は判決理由で「落ち度のない二人を身勝手な動機から殺害した刑事責任は極めて重大」としながらも、「人生の最後の瞬間まで、内省を深めていくことに期待すべきではないかとの結論に至った」と述べた。

 最高裁が示した死刑適用の「永山基準」に基づき議論したとした上で、「江尻さんの気持ちを理解できず、一方的に思いを募らせた結果、抑うつ状態に陥り思い悩んだ末に事件を起こした」と指摘。「犯行の経緯や動機は、極刑に値するほど悪質とまでは言えない」とした。

 鈴木さん殺害については「極めて残虐だが、計画性のない偶発的な犯行だった」と認定。「前科がなく、二十年以上社会人としてまじめに生活してきた。事件を深く後悔し、被告なりに反省している」と死刑回避の理由を述べた。最後に「被害者や遺族の思いを真剣に受け止め、人生の最後の瞬間まで、なぜ事件を起こしてしまったか苦しみながら考え抜くべきだ」とした。

 まさしく裁判員裁判でしか起こりえない判決だった。

 裁判員裁判で選ばれる裁判員は、作為が無ければ一般的な裁判員だろう。それは、正しく今の標準的日本人の心情に近いといえる。
 この判決が、妥当かどうか判らない部分も大きいが、心優しき日本人の今を表しているように思う。

 この裁判が、日本で始まった裁判員裁判の初めて死刑判決が下されるかどうかの事件である。まさしく初めて、裁判員が試されるときである。
 その状況は、死刑判決を下す勇気を試される試練の時であり、死刑判決を最初に言い渡す裁判員になる歴史的事実を忌避したということだろう。
 
 もし、この裁判の判決が、自分が判決を下したとわからない仕組みだったら、死刑になっていただろう。しかし、実際は、匿名とはいえ裁判員として多くの衆目を集めたはずで、普段なら考えられない重圧を受け、更に自分をある程度特定されかねない状況で、死刑の判決を下すことは無い。
 
 裁判官の場合、そのような状況を何度も経験したうえで、死刑の判断を下せるように訓練されてきている。その違いが如実に表れた結果だろう。

 この死刑か無期か判断に迷うような場合、今後裁判員裁判では無期が選択されることだろう。どこかで何回か誰が見ても死刑という事件で死刑が宣告されることが積み重なれば、裁判員でも死刑の宣告ができるようにはなると思う。

 今回の判決は、まだ上級審での裁判があると予想され、そこで死刑判決が下される可能性もあるが、その確率は低いだろう。


 上の2つの例で分かるように、日本人は優しくなった。その優しさは、自分で判断を下さなければ成らない時だけに発揮されるもので、もし、他の人間が死刑判決を下したとしても、冷酷にその判決を受け入れる優しさである。

 自分が判断を下す立場でなければ何も気にしようともしない無関心さと、匿名であれば、氷のように冷たい心情が常に横たわっているのが今の日本人の本質である。