体罰に思う

 雪、気温は、少し和らいだ。それでもマイナス10度くらいなのだが、あの体の芯まで凍えてしまう寒さでは無い。


 世間は、或いは人は便利なものである。ワーワー騒ぐピークが過ぎると過去の事は忘れてしまう。それで人間世界は成り立っている。

 つい数日前までマスコミは、大阪のいじめ問題で騒いでいたはずなのに、今回のアルジェリアの件で情報が占められると、今までの騒ぎが嘘のように静まり返る。後、1,2週間もすれば何事もなかったように高校の部活動は行われるようになるだろう。

 今回の件で、同じような体罰を行っていた教師たちも、半年か一年もすればまた同じような体罰を繰り返すようになるのだろう。あるいは体罰をやめる教師がいたとしても、後から後から体罰を受けてきた教え子たちがまた同じような道を辿るようになる。

 その数が少しずつ減ればよいのだが、勝利至上主義の高校では、短期間でその結果を求めるためには体罰を繰り返すことが手っ取り早いとなるだろう。

 体罰を教育と考え、生徒に与えた痛みと同じものを自分が同時に受け入れるような教師ならともかく、その心も無く、体罰を与えれば生徒は言う事を聞くと安易に考える教師は無くならない。最低限、形だけの熱血先生は排除すべき切っ掛けとするべきなのだが、教師社会も原子力村と同じムラ社会である。自分たちの利益を守る、或いは共同体としての意識がどうしても残るため、徹底的排除は不可能だろう。そしてがん細胞は静かに生き残る。

 我々の中に生まれるがん細胞は、人として生きて居れば必ず発生するものである。その発生場所は、特定の部位にできるわけでは無く神出鬼没である。早いうちにその芽を摘み取ることができれば被害は最小限にとどめられる。今回の体罰問題は、いじめ問題と同じように、広範囲に病原がばら撒かれた結果である。その姿を見た時には、既に進行を止められることはできない。

 

 もし、何も手当てしなければ、それが当たり前の世界になる。いじめなどは、人間がこの世に生まれた時から、永遠に続いてきた問題だから、一種の機能と言って良いのかもしれない。

 体罰もそこから派生した独特のものであるが、それを許す環境は、徐々に減りつつある。その理由は、体罰を加える側に優位性が必要だからである。地位であるとか、体力など、相手に対して優位な立場でなければそれはただの暴力行為になってしまうからである。

 だから体罰は、親と子、先生と生徒というように限られた関係でしか起きえないものである。それが、まだ人間の機能に成りえていない理由である。

 体罰と一括りしてしまうと、スポーツ指導と生活指導の体罰が同じになってしまうので、今回起きた問題の中で必要なのは、スポーツ指導の体罰を切り離し論議すべきだろう。

 大まかに言えば、体育教師は自分が受けてきた教育が全てだと考えるものが大半である。しごきしごかれるのが当たり前の生活に慣れ、それが当たり前と思うように育てられてきた。自分がクリアしてきたことをクリアできない人間は下等と見なすようにできている。ある種、鍛えられた単細胞である。

 今回、高校野球の指導者にプロ野球の経験者が短期間の講習で付くことができるようになった。これで有力高校と言われる高校の監督から素人は排除されていくことだろう。ただしプロ選手だからと言って、その指導方法に体罰が無いかというと無くなりはしないだろうが、まだ、プロとしての教育を受け、しごきが必ずしも技術の上達に繋がらないと考えている人間が多いだろう。

 もし、今回の事で、全ての体罰が否定されることになれば、自殺した生徒の望みが一つ解決することになるだろう。