臭い物に蓋

 晴れ、気温も10度くらいと本当に春が来た感じがする。今までは、冬の延長であった。


 台所の流し台、風呂場の排水溝の蓋をうんざりすることがある。普段は、蓋のような覆いに隠されて見ることのない部分なのだが、上手く水が流れなくなると、そこに色々なものが溜まっていることに気付く。

 それは自分たちが日常自分の体や、食器などの汚れを取った結果が溜まってできたゴミなのである。それが溢れることでそこに閉じ込めていたものの存在が明らかになり、そのカスや汚れがあたかも自分たちの存在を自己主張し始め、自分たちを綺麗にしろと言いだすのである。

 そこまでの状態になると、その中は、色々なものが混ざりにおいを発し、改めて人間の汚さを炙り出すような状態になる。正直そういったものに触りたくないと思わせる。

 何故そういった状態になるかと言えば、それはやはり臭い物に蓋をするという人間の意識がそうさせるのである。解決できないような問題を見て見ないふりをしてその場に置いて置くようなものである。その見栄えが悪いために蓋いをするのだが、それが却って問題を悪化させる。

 目に見える範囲で汚れが見え、臭いがすれば人間は、仕方なく片付けようとする。その汚物が少なければ少ないほど臭いはきつくないし量は左程でもない。そこで綺麗にしてしまえば、何の問題もない筈なのである。

 しかし、ご親切にも製造する側は、その汚物を貯め込みそして目隠しをして如何にもそこが清潔であるような様式に作り替えてしまうのである。

 それは、掃除が嫌いな人に対して配慮するようなものである。余程、そういったデザインを考える担当者は、汚物を貯め込むことを望んでいるとしか思えない。

 きっと発端は、排水溝に溜まる汚物の見栄えが悪いので、隠すように上司に言われたのだろうと思う。何故なら昔の排水溝は、配水管が詰まるのを防ぐために格子状になった金属の蓋が乗っかっているだけという極めてシンプルなものだった。そうであるが故、直ぐにモノが詰まり水が流れにくく成る代物だった。

 それでは使いにくいので、ある程度の汚物を受け止めても排水できるような形に成り、汚物が溜まるのが直接見えるのでは見栄えが悪いので蓋が付いたのだと思う。確かに直ぐに排水が詰まるようでは、使いにくい。ある程度溜まっても排水できた方が便利なのは判るが、あの蓋を付けることで却って物事の判断を遅らせることの原因となっているのである。

 臭い物には蓋と良く言うが、必ずしも蓋が有効だとは限らない。そこに綺麗好きの人が見て何か作業を終えた時点で蓋を開け中身を捨てるならそれも問題ないのだが、人間はそういった種類の人ばかりでは無い。逆にそういった事を嫌がる人が大半なのではないだろうか。

 

 そういう意味で、人間の作り出す現状を白日の下にさらすために蓋は必要ない。逆にその酷さを見せつけるべきである。高級で綺麗な流し台や、贅沢な風呂場を作ったとしてもそこにある人間の汚い部分を見せつけるべきなのである。

 こういった「臭い物に蓋」という習慣を日本人は捨てるべきだと考える。国内にあふれる汚いことをあたかも何もなかったかのように取り繕う事は辞めるべきだろう。取り繕う事で何時か物事は破綻し、決壊する。その時の惨状と言ったら見るのも穢らわしい。

 例えば、年金問題原発問題、慰安婦問題など、臭い物に蓋をするような対処ばかりしてきたことが問題を更に悪化させやがて取り返しのつかない事態を引き起こす。それが今の日本だろう。

 最近の慰安婦問題も、全ての意見を出しつくすべきだろう。本当だったのかそうでなかったのか、全てを白日の下に晒して議論をすべきだろう。それが無いので一向にそれについてまたいつか問題を引き起こす。

 人間が生きている内に必ず色々な汚い部分をひねり出している。それが人間の生まれ持った本性である。どんな綺麗な着飾った美人であっても同じである。必ず自分の体からそれをひねり出す。

 そういった日常的な物から、はては犯罪と呼ばれるものまで様々なものを生み出しながら生きているのである。そして人間のその本性を隠すために、人は取り繕い、あたかも何もなかったかのように時には振る舞う。そのひねり出した汚物の臭いを隠すために強烈な匂いの香水を振りかける。

 話は、徐々に大きくなってしまったが、自分の家では排水溝の蓋を片付けることにした。少なくとも自分たちが作り出すものを直視するためである。誰か他人が見たとしても構わない。何故なら全ての汚いものを隠すことはできないからである。