Yes or No

 晴れ、朝の気温は7度だったが、ぐんぐん気温は上がっている。既に10度近くにはなっている。通りの家の庭の桜は8分咲きである。


 昔から、今の政府を非難する時、外国の反応を載せるというよりも、外国に配信することで政府のやり方を非難させ更にそれを記事にするという、いうなればマッチポンプの役割を果たしていた。

 それは、公に政府を非難することが憚れる空気が有ったため新聞社自ら自己規制せざる負えなく、そういった外圧を利用することで自分たちの主義主張を実現しようとしていた。

 しかし、それも崩れ出したのは、記者クラブの有り方が非難され始め、更にインターネットというマスコミとは別の媒体がニュース配信の役割を担うようになってきてから風向きが変わった様である。

 今回の、閣僚の靖国参拝の報道も、自分たちが世界で配信した記事を隣の国の国民が読み、日本を非難する。そしてその記事をまた取り上げて更に記事にするという結果になった。

 しかし、そろそろマスコミ、これは新聞、テレビに言えることなのだけれど、自分たちの主張を始めから正々堂々と主張すべき時期に来ているのだと思う。

 瞬時に情報が世界に発信されてしまう時代に於いて、まずは外国の反応を様子見し、自分たちの思惑と一致すれば更に焚き付けるといった姑息な手段は取らず。正々堂々と靖国参拝違憲であると主張し、自ら国を訴えるべきだろう。そういった行動に出なければならない時期に来ているのだと思う。

 その主義主張が受け入れられなければ、新聞なら販売部数を低下させるだろうし、テレビなら視聴率が下がるだろう。

 

 そういった結果に対する及び腰な姿勢が、まさに風見鶏であり、読む人見る人を混乱させる。そういった意味で、財政的に心配のないNHKの方が主義主張が一貫しているのかもしれない。他のテレビ局は、色々な主張に対応するためにある時間帯は、政府に迎合し、ある時間帯は政府に反旗を翻すような出演者を登場させるというような、見る時間帯によって意見が異なるような雰囲気は、徐々に今の世界には受け入れられなくなってきてしまっている。

 

 更に言えば、吉本芸人、ジャニーズ、AKBといった面々が登場するようなワンパターンの番組を流すことで更に見る人を遠ざけているようにしか見えないのである。

 新聞も、色々な情報を伝えることをしながら、その記事の方向性を暗に自分たちの主義主張を伝えようとしているのは判るのだけれど、既に多くの読者がその記事の底に隠された本意を深読みするような読者は既に存在しない。

 その記事の字面だけ見て、通り過ぎる人が増えている。まさしくツイッターの文字数を超えるような文章に潜む文意を理解することを諦めるあるいは時間の無駄と捕えている人間が増えたのである。

 またそれに迎合すると、更に記事は薄っぺらくなり、物事の本質を伝えきれなくなるのである。

 今後の情報社会は、そういったダイレクトに意見を表さなければ誰もその情報に見向きもしない時代に突入してしまったのである。曖昧な表現は時として色々な解釈を生み、自分の真意を伝えきれない。

 既に、物事の判断はイエスかノーでありその中間は存在しない世の中になるはずである。その間のグレーな表現は徐々に受け入れられなくなるのだろう。