未来は予想するに限る

 晴れ、気温はマイナス3度。

 

 時たま思う事は、「結果が判っていれば努力するのだが」という事である。

 結果と言ってもスパンがある。明日どのようになっているか判っていれば良いことと、10年後の結果が知りたいというのもある。

 

 ただし、物事には進行スピードが有り、それを一律に○、×と自動的に判定することはできないだろう。

 それでも無駄な事と知りつつやる作業というものは、未来を予知しないでも判るという事がある。しかし、その結果がもしかしたら結果的に良かったという事もあるし、良かれと思ってやったことが大きな惨事を引き起こすかもしれない。

 しかし、そういった事は上から命令されて行う事が殆どであり、簡単に拒否できるものでもない。先の事が判っていれば今無駄と思われることも進んでできるだろうし、将来の結果が最悪であれば止めることもできる。

 例えば、福島原発が今回のように将来日本に大被害をもたらすと判っていたら建設をしないだろうし、あの大きな津波が来ると判っていればあのような強大な防波堤は作らなかっただろうし、海岸沿いに住むことは無かっただろう。

 

 そういった自然災害が起こることを事前に予知できていればこれ程ありがたいことは無い。今回の大地震のように何年何月何日の何時に起きると判っていれば、その時間までに備えをすればすべて問題なくやり過ごせたわけであるから。

 ところが一度人間が係ると予知は不可能になる。何故なら人は物事を変えることができるからである。今回辞任した猪瀬さんも、5000万円の現金を受け取ったら都知事を辞めなければならないと知っていたらお金を受け取らなかっただろう。それを受け取らなかったために、今後行われる都知事選も無くなるわけで、この次の都知事選である候補が当選すると予知されていたことが事実に成らない訳で、その本人にとって大問題になる。

 そもそも、猪瀬さんが都知事になって任期1年目で辞任することに成り、逮捕されると判っていたなら立候補していなかったかもしれない。

 本当に幾通りもの未来が存在するわけで、本当にSFの世界のパラレルワールドそのものである。

 それでも、自分だけは未来を予想できればと思うが、もし予想することができるなら、まず最初の行動は、人類皆根絶やしすることになるかもしれない。

 だから将来を予想できても予知できないことは人間にとって幸せな事なのかもしれない。