昨日の続き

 晴れ、気温は16度。

 昨日の多数決の話、時間切れで中途半端で終わらしてしまったので続きを書くことにしたい。

 多数決の一人一票の大切さは同じである。ただし、例外は当然ある。株主総会のように一人一票では無く一株一票は、代表的な物だろう。

 多数決で決めるにしてもそれをするための決まりが存在する。それは、多数決が公平に行われるための工夫である。例えば日本国憲法においても憲法改正のためには、

この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

以上の手続きが必要であると定められている。

 昨日の朝日新聞の問うているものは、民主主義において多数決で国の方針を決めることが何時でも正しいかという問いであった。時には多数決は正しくない決定をもたらすというものだったと、そう自分は解釈した。

 多数決は、時に正しくない判断をする。世界の歴史においても後で見直せば間違った判断を下したと思われる多数決もある。

 しかし、後世でその多数決が正しいか正しくないかを正しく立証できることは不可能である。可能な事は、逆の判断をすれば歴史がどう変わったかという事でしかなく、その当時の状況ではその多数決で決まったことは当然の事だった筈である。

 もし、時間的余裕がある問題なら再度議決を取り直すことも可能であるから、多数決で決まったことが将来にわたって拘束されることでもない。

 ここで問題となるのは、決断に時間が無い時の判断で多数決を取る場合だろう。判断後直ぐ行動に移す場合を想像してみよう。

 

 古い大きなダムのふもとの村の住民が大雨が続いて避難しなければならない時、がけ崩れが心配な山道を通るか、ダムの決壊が心配なダム下の道を通るか決断に迫られた時に、住民が集団で動く場合、両方の危険性を承知の上で行動を多数決で委ねる場合、どちらを選んだとしても危険性は同じだとしたら多数決の決定は、どちらも正しいと言える選択はできないだろう。

 目の前にある危機を未然に回避する方法は預言者でしかできない。

 多数決は、上に述べたように正しい選択ができるとは限らない。しかし、選択が迫られた時に頼るのはどちらが多数の意見かだろう。それにより多数の人命が失われたとしてもである。

 失われたものが大きければ大きいほど、多数決に対する批難は起こるだろう。もっと良い選択肢が有ったはずであるという意見である。

 それは、一見正しいような意見に聞こえる。しかし、それは過去を振り返るタラレバの意見と同じである。もし、それが間違いであるとしたら集団的行動はとれなくなってしまうだろう。

 多数決に反対するという事は、集団で行動することを拒絶することと同じである。それが全体主義と呼ばれるかもしれないが集団で同一行動をするならそれは許されないだろう。

 今の日本はそういった多様性のある意見を主張することが許されているはずである。だから、自分の主張が受け入れなければとことんまで反対することが可能である。反対することで何かの罰を受けることは無い。

 しかし、先ほどの村の例では無いが、自分たちの主義主張が正しいと幾ら主張してもその正しいと思える思想を多数の人に認めてもらわなければ多数の人の命を救う事はできない。

 

 その究極が、世界のあちこちで起きる独立論だろう。同じ国家の国民でもその中で主義主張や歴史の成り立ちが異なればその集団の意思が異なってくる。最初は同じ大きな集団でも、その時間の積み重ねより別な集団が生まれ別な国家ができるそれは歴史を通してみても起こって当然の事である。

 結局何が言いたいのかというと、集団の意思を決めるのはやはり多数決で決めるしか無いという事である。それが正しい正しくないというのは結果であって未来では無い。決まった時点から新しい未来、歴史が作られていくわけである。

 では、昨日の解決方法として挙げられた、投票の仕方は正しいかというとそれもやはりルールの一つである。本当に正しい結論を曖昧にしてしまう可能性も高いだろう。

 やり方は異なったとしても、その結論を尊重することが大切である。解決まで時間がある問題なら猶予は有る。再度、見直せばよい。

 やはり一番気を付けなければならないことは、如何にその決議に対し自分の意思で結論を下せるかである。罠にはまらないことである。どちらも天使のような顔で自分たちの意見に賛成することを言葉巧みに誘惑するからである。

 多数決を尊重しない限り民主主義は成り立たない。