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昨日は、11月11日というゾロ目の日だった。それなのに11時11分11秒を見るのを逃してしまった。残念。
世紀のゾロ目は1111年11月11日11時11分11秒だと思うが、その頃には日本には太陽暦は無いし、時計も秒を計れるようなものは無かっただろう。そして次のゾロ目が、2222年2月22日2時22分22秒なので当然その頃はあの世の住人であるから、その時を迎えることは無い。
良く宗教などでは現世の肉体は借り物と言うことがある。これは輪廻転生という理に倣えば精神は肉体を超えているという話だからである。
そういった摩訶不思議な事は起こらないとして、今自分の記憶全てをコンピューターに詰め込み生きている人間と同じような思考ができるとしたら、まさしくその人間の魂は生き続けているのだろうかという疑問が起きる。
普通、人は夜寝て朝起きる。その睡眠中の記憶は無い。例えば、人の脳から記憶メモリーに記憶を写し、その情報を元に思考するコンピューターに電源が入れば、その記憶の延長にある思考(魂)は丁度眠りから覚めた状態に成るのではないだろうか。
魂は人の体には存在しないが、機械の中には存在する。そこには自分の記憶が存在し、その記憶を元にそっくりそのままの性格で思考できるなら立派に人格は存在するからである。その代わり元あった肉体には生命が存在しなければ死を迎えるわけで、その時にその体に宿った思考は消滅する。
では、その肉体にあった思考は、機械に移された思考と同一なのだろうか。もし同一だとしたら魂は輪廻したという事である。
と書いては見たが、思考する機械が機械では無く人間そっくりに作られていたならその思考は、あたかも機械に灯がともる以前から存在したと思うだろうが、機械に思考が移されてしまった時点で今まで存在していた人間とは別になったはずである。それは一種のイタコ状態である。その後、新たに経験を積むことにより全く別な人間として存在することになる。
この様な未来が果たして訪れるかどうかは判らない。人工知能が発達して生きている人間の記憶を移すことが出来たとしてもそれ自体が無意味な事である。何かの歴史的事実の証明の為その記憶を利用しようとしても人間は記憶を知らずの内に改変してしまう。
記憶がただの物語に過ぎないのだとしたら、その物語を敢えて残す必要はない。それが波乱万丈の人生だったとしてもだ。