真実は伝えられない

 曇り、気温はマイナス4度。

 昨日もコンサドーレの試合の録画を見てしまった。何度も見るとあの試合のことがドームでは届かなった視点で見ることができる。

 ドームでは、パスの精度の悪さが目に付いたが、テレビの画面では左程気にならない。テレビカメラが首を振るのが原因かもしれないが、上手く回っているように見える。ゴール前の危険なパス回しもヒヤリとするのは一回だけであった。

 もし、自分の見たいところを見るのなら現場で見るのが良いということを認識させられた。テレビの場合は、見る側は家のソファーで遠慮しないで見ることができる利点があるが、その試合がテレビカメラ一端通されるとその間に制作者の意図が加えられているのである。

 実は、そういった事は日常茶飯事に起きている。テレビ番組もそうである。見ている人たちに自分達が作るものを今後も観てもらうために常に自分たちが作っているものが真実であると訴えかけている。ニュースでありドキュメンタリーであり健康番組であれ、続けてみてもらうには信用してもらうしかなく、その信用を得るために一種の洗脳を行っているのである。所謂印象操作である。

 大相撲の貴乃花親方の扱いが非常に良い例である。かれを悪役にしたいと思う一方、悲劇のヒーローとして盛り上げたいと局内で意見が分かれている場合、どちら側ともとれる番組作りをして視聴者の反応を見る。所謂擁護派と断罪派の2人のコメンテーターを用意するわけである。その2人の意見に対する視聴者の反応を見るわけである。そのためテレビ局によっては擁護派と断罪派2つの色が見えて来ており、更にその反応を見ながら番組を作り替えていく。

 またそうではなく、雑誌などはそうであるが、作るまでの時間のラグがあるため作る時に擁護派、断罪派どちらかを決め打ちしてくる。それは一種の掛けである。どちらに読者が興味を示すか発売した後にしかわからない。その雑誌を売るためには、テレビやマスコミを利用しなければならないため、その辺りは阿吽の呼吸によるものが大きい。

 自分たちの正当性を示すためには、非難する相手は悪者でなくてはならない。だからそのためには印象操作も欠かせない。切り口によっては良い人に見える話題も悪い人として扱うために放送の仕方を変えるのは当たり前である。それが視聴率を稼げると思えば何でもありなのである。更に視聴者に自分たちの番組を見せるためには、あくまでも自分たちは正義の使者である。

 我々が見ているもの読んでいるものは、誰かのフィルターを通した視点であり、真実はどこかで歪められている。そのことは、どんなに真実を伝えようと制作者がこだわったとしても制作の過程でノイズが入り込む。

 こういう文章もそうであるが書き手の意思は必ず現れる。書き手が真実を伝えようとしても全てが伝わるわけではない。