多数決と独裁

日本が議会制民主主義国家だということはご存知だと思う。議会制民主主義は、国民をいくつかのグループに分けその中からそのグループの代表を選ぶことから始まる。
 そしてその代表の中から、政策責任者を選び政治を行なっている。ここでの議決は、多数決で決まる。

 一見よさそうなこの制度、問題は多々ある。一つは、多数決が絶対ではないということである。国民の世論、または政治的な駆け引き、他国からの影響により多数決は間違った判断をする。そして往々にして、間違った判断は、そのまま実行に移されるし、その決定を翻すのは多数決が必要で、緊急に対処できないことは往々にしてある。

またその決断は多数決で決められたため、責任の所在が曖昧になりやすい。

では、一人の独裁者が政治を行なうのが良いかというとやはり功罪がある。メリットといえば、政策実施のスピードが早くなる。多数決が徒歩だとすれば、独裁政治は、新幹線並みに早いといえる。また、その独裁者が優れた人物なら国民に利益のある政治を行なってくれるだろう。その場合、他国への影響は考慮しない。

デメリットは、ご存知のように独裁者が暴走すれば誰も止めることはできず、最終局面に到達してしまうことが殆どである。それは歴史が証明している。また、高潔であると考えられた独裁者でも間違った行為はする。それを止めるか何らかの救済処置ができるスタッフが周囲にいれば良いが、往々にしてその周囲にいるのはイエスマンが多い。

今日の話は、国のことを言ってはいるが、実際は、会社であったりグループであったり、人が集まるところでは似たり寄ったりの構造が出来上がる。それは、自分にとって有利な場合もあるし、不利な場合がある。不利な場合は、反対的行動をとることもあるだろう。
しかし、人間の大多数はまじめである。自分たちが選んだもの、或いは忠誠を誓ったものに対しては服従する。それが自分にとってつらいものであってもだ。それは税金であったり、法律であったり、刑罰であったりする。
 大勢人間がいるため、体制に服従しないものも当然いる。それが犯罪という形発揮され、体制は犯罪者というくくりで身柄を拘束することになる。

頭とはさみは使いようというように。うまく使えばこれほど便利なものはない。それを使いこなすことは一見簡単そうに見えるのだが、大勢の人間が集まればそれがうまく使えないことが多々ある。それが社会に混沌を生む結果となる。しかし、今までの歴史の中で、社会に混沌が生まれれば、それを破壊しようとする力が働く。その働き方が強烈であればあるほど多くの人間が犠牲になるのだ。

そうならないことを祈るしかないのだが。