曇り、気温は0度.このくらいの気温なら暖かく感じられるように体は順化してきている.日中は雨の予報なので気温はもっと上がる.
民主主義は分断を生みやすいのだろうか?
その疑問の一つの答えとして考えられるのは、民主主義の原則が多数決での決定を行うことにある.一つの方向を決めるために多数決は有用である.独裁国家なら指導者が首を振れば良いものを、民主主義国家は、多くの市民の意見を聴かなければならないからである.
多数決で決める際、必ず賛成派と反対派が存在する.賛成派、反対派とも自分の意思を通すため仲間を集め始める.そして、相手を自分達の意見に従わせようと議論を交わすが往々にしてその議論が相手の誹謗中傷に発展してしまう.
物事を決める際に、常に賛成反対を決めるうちに、徐々にその集団の意見、行動がある一手の方向性を持つようになり、民主主義の基本である個人の独立の精神は失われていく.
対立が重なれば、当然意見の合わないグループとは一線を画すような状態に陥りやすい.
本来なら民主主義の社会の中で多様な意見を取り入れる仕組みが正しい方向に進むべきなのだが、意見を交わすこと自体が感情的軋轢を生み、議論そのものが進まなくなる.
以上のように、本来は自由、平等、博愛の元に民主主義国家は運営されるべきなのだが、自由な意見を述べることが可能なことが、却ってその自由な意見が自由を妨げる方向に進みがちである.
そのために国家は法律を作り、色々なものを規制するのだが、その規制の方向如何では、その規制によって不利益を蒙る人は発生するわけで、そのすべての人に満足させるような仕組みを作り上げるのは至難の業である.それを成し遂げるために先人たちは苦労したのであるが、理想の民主主義国家は実現してはいない.
何故こんなことを書くかというと、言論の自由が保障されているため、その意見が異なるグループの間でマスコミを利用した自分たちの正義を正しいとする情報が多いということである.
正しいとされる意見にも必ず穴があり、全てが正しくないという場合があるのだが、その瑕疵は改められず、強引な意見が主張されることが多い.
また、インターネットの登場から、多様な意見を多様な媒体を通して表明できるようになり、それに拍車を掛けるようになってしまった.今まで目にすることは無かったトンデモな意見も知らずのうちに目に入り、ある意味目を塞がなければならない場面も出てくる.
多種多様な意見を目や耳にするにはそれなりの準備が必要である.自分の意思が確立していなければ川面を流れる水草と同じで目にした意見に自分の意思を持たないで従属してしまう.
人が集まれば集団が生まれ分裂が始まるのは、集団の持つ宿命のようなものである.時には対立を生み、分裂し、集合が始まる.今まで意見が異なる人たちでさえ、ある目的があれば一つにまとまることさえする.それが多種多様性というのだろうが、何かに強制されない自由があることで自由に集団が動くというのは、時には危機的状況を生むこともあるのだと理解しておくべきだろう.