日本人の責任感

死して責任をとるということで、松岡前大臣の責任問題はこのまま幕引きを迎えそうで、結局今まで何時間も無駄に時間を費やして一人の人間が死んでいったことになる。
 本当に、政治と金の問題をクリーンにしておかないと第2、第3の犠牲者が出るだろうに当の政治家の意識は、「松岡さんが亡くなったからいいんでない」ということらしい。
 野党も何のためにこの問題を追求していたのか、このまま有耶無耶になれば税金泥棒の謗りを免れない。

 日本人の責任感というものは、本当に曖昧である。そこに西洋式の責任のとり方が混在し、余計あやふやになってくる。日本式で言えば、責任のとり方は、謝罪と償いである。償いは金銭のみならず精神的、肉体的な奉仕も含まれる。しかし、それは誠意という言葉にあるように感覚でしかない。
 そこに西洋式な償いである、金銭保障が入ってきたから複雑になる。お金を払うことで全てが解消するという論理である。(これは日本人の誤った解釈であろう。精神的な謝罪が必要で無いわけではないはずである)高額な賠償金のようなものである。

 そのためある面では、謝罪しない人も居るし、謝罪する人も居る。その考え方の違いが余計物事を複雑にしているのではないだろうか?

 今回の件で言えば、責任は死んでとったということになるだろうし、それに答えるためにも政治家の金の使い方をきちんとするべきであるし、天下りの弊害が見事に出た事件なのだから、その天下り先の企業に一切の便宜を図れないような仕組みを作ることが大切では無いだろうか。 
 それが、国会議員の方に与えられた責任のとり方では無いだろうか?