コスト社会

 朝方まで雪が降っていた。その雪もやみ、朝日が外を照らし出すと同時に瞬く間に積もった雪が融けて行く。
 気温は、雪がふるくらいだから当然低い。零度前後だろう。外気に触れた素手に寒さが伝わってくる。

 最近立て続けに起こった自動車火災。それもどれもが幼い子供が乗った車両の出来事である。これが本当に偶然としたら本当に奇妙な出来事である。

引用 47ニュース(http://www.47news.jp/news/2010/04/post_20100406093637.html

ライターが一転「凶器」に 「車中に幼児」の火災相次ぐ
 幼い子どもが残されたたまま、車が燃え上がる火災が相次いだ。北海道厚沢部(あっさぶ)町では2日、きょうだいとみられる4人が犠牲になった。宮城県柴田町では4日、3歳と1歳の姉妹が乗った車が全焼、2人は無事だったが、火を消そうとした母親がやけどを負った。いずれも車内にあったライターが原因となった可能性が…

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それに対して、簡単に着火できないようなライターを作るような動きがある。

 昔なら、そのようなことも自己責任で片付けられたことであったが、徐々にその意識は替り、製造したものの責任が問われるようになってきた。
 安全な商品を売るのは当然であるが、しかし、一つ問題があるのも事実である。

 それは、使用者が必ずしも適切な使用を行っていない場合があるからである。更に問題なのは、製造者だけの責任を問うだけで使用者が道具を使う際点検確認する義務を負わせていないことである。

 道具を作る側は、適切な使用の範囲内で安い商品を作ろうとする。ギリギリのコストカットは今の製造現場の常識である。そうでなければ安い外国製品にとって変わられてしまうからである。
 そういった中で、安全性を高めることはコストを高めることに繋がる。それは日本にとっては逆関税障壁である。
 
 使い捨てライターなどは、その最たる物である。使い捨ての名の通り、中のガスが無くなればゴミとして使い捨てられるようなものである。
 そのため、再利用する必要もなく、必要最小限の機能しか持ち合わせていない。それで低価格を産んできたわけである。

 もし、多くの危険性を考え商品を作ると、安くて手軽と言う商品ではなく高くて不便と言う商品が出来上がってくる。
 もし、手軽に火が着けられない商品しか作れない場合、この商品はこの世から淘汰される可能性がある。それも仕方が無いといえば仕方が無いが、当の製造している関係者からすれば死活問題である。
 
 では、これを解決すべきところはどこにあるのだろうか?

 間違いなく今の日本人は、安全な生活が保証されていると考えている。自分が行動する所は守られるはずと考えている。例えば、断崖絶壁に柵が有った場合、その柵は壊れることは無いと思っている節がある。
 例えば自分が道路を歩けば、車は避けることが当然と考え道のどこでも横断しようと考えている。
 大概はそれで安全が守られるのだが、運転している人が、同じ考えを持っている人だったら、安全と思って道を歩いていても事故にあい命を落すことになる。

 その安全を確保するために、多大なコストを掛けてそれを徐々に実現したのだけれど、人が生まれて死ぬまでの間の安全を全て保証するにはどれほどのコストが掛かるだろう。
 
 技術の進歩は人間社会に安全をもたらした。その証拠に日本人の平均寿命は確実に伸びた。昔なら4,50代で亡くなっていたものがその倍も生きるように成って来た。
 それと共に、自分の命は、自分で守るという意識が薄れてきた。
 もし、アフリカの草原に野生動物と武器を持たずに暮らしていたなら、寝ている間も獣に襲われる心配をしながら眠らなければならないはずが、日本に暮らしていればそのような心配をせずに眠ることができる。
 
 本当は、人間は常に自分の命が危険に晒されて生きていることを幼い内から教育する必要がある。
 そういう意味では、兵役義務なども自分の身は自分で守ると言うことを知るひとつの方法だろう。

 余りにも日本人は、文明に飼い慣らされてしまったのかもしれない。もし戦争が起これば、あっという間に占領されてしまうだろう。それ程軟弱化してしまったとも言える。
 
 少し話しは、飛躍してしまったが、今回の一連のライター騒ぎについて、マスコミなどは、一方的に製造物の責任にしているが、これは危険なものをいたずらするであろう子供のそばに放置していた親の責任にも言及すべきだろう。
 そうでなければこの先、色々なもので子供は事故を引き起こしかねない。それを全て安全な社会にできるほど日本は豊かになることは今後も無いだろう。