雑感

 黒い雲が頭上を覆っている。その隙間から時折朝日が陽の光を地面にとどかせる。あの黒雲から何時水滴が落ちてきても不思議はない。

 
 日本人は、悲観論者だという。雲行きが怪しくなれば、直ぐに災いが起こると口にする。それは、日本人が生まれ育った環境がそうさせるのかもしれない。

 地震、洪水、火災と人々が暮らす上で避けられないものばかりである。それに向かって何時も楽観的なことを言っていては周りから信用を得られない。
 災は来ると言って周りに備えを進めていたほうが人から信用を得られる結果と成る。心では楽観的でも表面上は深刻なことを言っていなければと言うことで、まさしく備えよければ憂いなしということに成る。
 
 だから日本の指導者に楽観論を口にする人は少ないのかもしれないし、評論家と呼ばれる解説者は常に悲観論を口にせざる負えないのだろう。

 しかし、その性格も徐々に変わっている気がする。それは、脳天気な人種である。明日は明日の風が吹くとばかりに今が楽しければそれで良いという人間である。
 そういった人たちは、刹那の快楽を求めるが故、それに到達するまでの喜びを感じることが出来ない。
 そのため、快楽は一瞬で終り、また新しい刺激を求めようとする。しかし、おいそれと快楽を得る手段は得られるはずがなく、薬や酒に走るのだろう。

 普通は、到達するまでの努力を楽しみコツコツと傍から見れば楽しくないことを毎日繰り返し目標を達成しようとする。その毎日の努力をやっている本人は楽しんでいるのだ。
 その毎日の努力を刹那快楽主義の人間は馬鹿にする。しかし、実際の快楽を得る時間は、非常に長いのである。

 更に変わってきたことは、自分の権利を声高に主張する人が増えたように見える。これも実際は、声高に主張する人の声が異常に高いせいで周りにいる人間もその声に押され声を張り上げる様に成ったせいである。その声を出す人間の数が少しでも増えれば声が大きいだけに目立ちそれが全体のボリュームを上げているのである。

 声を張り上げるのは、正しい主張が含まれている場合もあるし、その勇気は必要である。しかし、その声の大きさに隠れながら声を出す人間の多さが問題なのである。その状況を見定めながら漁夫の利を得ようとする心の狭い人間もその周りに集まってくるから話はややこしくなるのである。

 全体の多数は、人の事を考えながら生活する常識人であるが、その極端に居る人間が増えることで日本が変わったように見えるのである。

 人々の暮らしは、見た目豊かになった。それは、人間が体を動かすこと無く仕事をしたり、体を動かすこと無く情報を得たりが昔と比べて飛躍的に進歩した。ただそれだけである。者を考えたり想像したりする力は、同じというより退化したのかもしれない。